Scribble at 2024-07-12 09:51:51 Last modified: 2024-07-12 10:52:17
長らく続けているご当人には気の毒なことだけれど、僕はこういうブログ(記事)って既に社会科学的な効用がゼロに等しいと思ってるんだよね。非常に申し訳ないけれど、徒労だと思う。プロパーはご承知のように、分析哲学でもデイヴィッドソンの論文のタイトルだったか、妙なタイトルのブログを運営している人物がいて、論文や書物の梗概みたいなことを掲載していたりするんだけど、あれって学術研究者としての「研究メモ」の類ですらないんだよね。そして、その論文の「まとめ方」なり「読み方」にブログ運営者のオリジナリティがうかがえるなんていう、日本の人文系の研究者が大好物にしてる文芸批評的なノリを認めるとしても、その「オリジナリティ」をわざわざ解読しないと事象そのものへわれわれは哲学者としてアプローチできないんだろうかっていう、僕が哲学者を名乗っているからこそ言える根本的な問いがどうしても最後に待ち受けてるわけだよ。そうなると、これまた僕が哲学者として日頃から言ってることだけど、そんな「読解のオリジナリティ」なんていう物事の本質と殆ど関係のない、歴史的かつ人間関係に依存するような話を延々と続けていくことが哲学であるみたいなスノッブは、やはり無能なプロパーの性癖みたいなものだとしか言いようがない。それこそ、最近の有能な学生さんなら、「そんなことはどうでもいいから、哲学者としての業績は?」とでも言いたくなるようなことだろう。
ということで、上のようなブログにしても、社会科学的な有効性が殆どないと言いうる(正直、既に生成 AI による自動翻訳と品質が変わらないように見受ける)からには、やはり最後に残る生身の研究者としてのアドバンテージというものは、プロパーとしての業績に尽きるわけだよ。もちろん、無から有を生み出すとか、波止場で作業員をしながら哲学しろとか、そんなことは必要ないわけで、他の人々から学ぶべきことは多くあるから、こうして文献を扱うことの是非なんて問題ではない。
そういうわけで、まだ入江幸男氏の(実は趣旨がよく分からない)ブログの方がなにがしか学ぶべきことあろうと思うんだよね。とにかく、横のものを(著者なりの読解だろうと)縦にするだけのブログには、もはや価値がないと思う。そして訳している内容ではなく、訳している人物の人となりみたいな、はっきり言って些末でしかない話に拘泥してグズグズと学者としての成果を出そうとしない連中にも、このまえ茂木健一郎氏の発言を取り上げたけれど、実は僕も頭に来てるんだよね。この国の連中の無能さというか、成果を出そうとしない怠慢というか、そのくせアイドルを引っぱってきてカントを語らせたり、クリシンだ、アクティブ・ラーニングだ、癌患者をネタに現象学をやったり、ドーナツの穴から AV 女優まで適当なサブカルをネタにした「分析哲学」とやらの本を書いたり、ほんとにきみたちは哲学を志した初心って、それなのかと問い質したいくらいだね。そういうことをやった末に、東大教授だ、学部長だ、政府のなんとか委員だ、岩波から単著を出すだの、筑摩書房からてめーの著作集を出版してもらうだの、あるいはなんだ長野県に書庫専用の別荘を建てたり、都内のセコい出版社から通俗本を出して帯に「知の巨人」として紹介してもらうとか、あるいは生誕地に銅像でも建ててもらったら、おまえらは哲学の教員として満足なのかって話だよ。
あとね、これは修士の頃に話したことがあるはずなんだけど、「A を正しく考えるためには B を正しく考えなくてはならない」式のだな、つまりは無限後退を言い訳にするやつがいるわけ。成果を出せないのではなく、「A を正しく考えるためには B を正しく考えなくてはならない」という「正しさ」の基準に達したと思えないから成果を出さないだけであると。寧ろ、その基準に達していないのに成果として出すことは不誠実だというわけ。こういう連中にも腹が立つんだけどさ、要するに未熟さや無能を「誠実かどうか」という道徳の問題にすり替えてるだけなんだよな。そんなもん、正しいかどうかなんて最初から分かってるやつなんていないわけで、どのていどまでかはともかく一定の回数の見直しをして納得できる限りで submit してるわけだよ。もちろんいい加減なものを出すべきではないから、自然科学や社会科学ならデータの扱いとかグラフの描画とかにミスがないかどうかを何人かでチェックするだろうし、そんなことはアマチュアの俺がいちいち言うようなことでもあるまい。それでも間違いはあるし、気が付かない偏りだとか系統的な誤差が生じている可能性もある。しかし、だからこそコミュニティというものがあるわけで、自分で自分の間違いにすぐ気がつくくらいなら、それこそ改めてから submit しろってことだ。つまりは、間違いがないという確証がないかぎり何もコミュニティなり公に開示しないというのは、逆に言えば他人を信用していないという証拠だし、自分には誰にも反論できない議論を出せる筈だという思い上がりでしかないし、できないと分かっていてそういう態度を取るのは、それこそが不誠実というものだ。つまり、哲学なんて語る以前の問題なんだよ。