Scribble at 2024-07-11 10:41:40 Last modified: 2024-07-12 09:03:15

昨晩、寝ながらつらつらと考えていたことなのだが、僕は聖人君子でもなく漫画的な悪逆非道でもない、おおよそ善良なこともすれば下らないことや愚かなこともする、「凡人」をアクターとしてモデルにするのが、まともな社会科学だと思ってるんだよね。なので、経済学に当てはめると、従来の経済学は近代経済学だろうとマル経だろうと、およそありえないアクターを想定するモデルを採用していて、それがゲーム理論であろうと下部構造に決定された社会システムであろうと、記述的な目的にはぜんぜん使い物にならないという実情があって、それゆえ金融屋とか経済評論家のような人々からは軽視されていたわけだ。かたや、行動経済学もヒトの認知能力だけに焦点を当ててしまっているため、結果として新手の合理化モデルを弄んでいるだけとなってしまっている。少なくとも、このところ教科書が出版されるようになった「経済学の哲学」という分野を独立した問題意識の学科として押し進めたり展開するなら、こういう点を十分にカバーしておくことが望ましいと思う。

合理化モデルで自立した形式化を打ち立てたら満足であるような動機の人はともかくとして、いやしくも実態としての社会慣習や法令や市場を改善したり正確に理解することを望むのであれば、そこで無理に規範なり理想としての合理化したモデルだけで議論していても限界はある。そして、困ったことに限界を乗り越えられなかったであろう人々(つまり凡人を基準にした社会システムで世の中はよくならないと諦めた人々)の中には、たとえば宮台真司氏のように、発達障害やサイコパスの人々が世界を支配するべきであるなどという世迷言を口にするような人物が出てくるわけである。見た目は穏当で「常識的」なことを言っているように見えても、聖人君子が支配者になればいいなどという愚劣なことを言う者も、結局はこれと同じであって、僕のような保守の人間に言わせれば単なる社会科学を道具にしたファシストでしかない。

まことに有名なゲティスバーグ演説をヒントにするなら、われわれの社会というものは、凡人の、凡人による、凡人のための社会科学が有効でありうるという信念なり前提なりコミットメントなりがあってこそ、まともなものとして確立し役に立ちうると思う。この場合に、多くの社会科学者が根本的に間違っていると思うのは、自分たちは「凡人」ではないという巨大な思い込みを抱えていることにある。したがって実情としては、凡人の、自分たち知識人による、凡人のための社会科学になってしまっており、これはどう考えてもパターナリズムにならざるをえない。そして更に、自分は凡人だという左翼的な自意識で取り組む人々も、僕に言わせれば自己欺瞞に陥っているわけであって、そんな特別なスタンスとか投企とか主体性なんていうアプローチが必要だと思っている時点で間違っているのだ。

それは社会科学なアプローチでもなんでもないんだよね。ただの認知行動療法だよ。

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