Scribble at 2024-07-01 10:01:18 Last modified: unmodified
初めて学術雑誌の購読料金を調べたり知ったのは、確か学部時代に丸善で購読料金が掲載された冊子をもらったときだった。当時は心斎橋筋の北端に丸善の店舗があって、既に洋書は殆ど置いていなかったのだが(二階の一角に展覧会のような体裁で洋書が僅かに並んでいた)、たまに足を向けていた。もらった冊子は中型の辞書くらいの分量がある、恐らくは大学図書館やプロパーに配布する販促用の資料だったのだろう。それを、なぜか店頭に置いて無料でくれたので、僕らのような公費で買うわけもない学生でも手に入れられたのであった。
Analysis は、当時の購読料金と殆ど変わらず、現在も上のページで確認できるように個人で購読する場合は年間で $100 を越えないのだが、やはり個人として購読するにはこれと The Journal of Philosophy くらいが限度かと、当時も思った。そして、結局は今も購読していない。あまり大きな声では言えないが(とウェブで公表している時点で矛盾しているわけだが)、学部時代の僕は、関西大学大学院の法学研究科に在籍していた友人の「校友カード」を借りて、千里山総合図書館に入って雑誌をコピーしていたからだ。もちろん、その数年後には自分自身も関西大学大学院へ進んだから、自前の交友カードで数多くの雑誌論文をコピーして手に入れるようになった。当時は、アルバイトで得た給与の 1/4 くらいがコピー料金となって、半分くらいが京都の至誠堂で本を買うための資金となり、そして残りが食費や交通費であったという生活で、過剰な本の購入も「娯楽」と言われれば反論しようがないけれど、一般的な理解で言う娯楽費というものは殆どなかったように思う。
それはそうと、Analysis のバックナンバーを改めて眺めていて、いま新シリーズの始めから(Analysis に旧・新のシリーズがあることくらいプロパーなら誰でも知ってると思うが)収録論文を確認しているのだが、やはり分析哲学の古典的なトピックス(しかし国内の著作物でまともな分量として論じられたことが殆どないという)、たとえば帰納の正当化とか、他にも "why supervenience?" だの条件法の分類だのというトピックスを除くと、short discussion の雑誌であるという主旨からして避けられないことだとは思うが、かなり一過性の散発的な議論が多くて、その議論が結局はどういう後続の研究に影響を与えたり寄与しているのかが分かりにくい。まるで学生が授業中に隣同士でヒソヒソ話の会話を交わして終わるといった体裁の discussion が多いように思う。もちろん、これにはこれで色々な効用があり、数百年前なら異なる国に住んでいる学者どうしが手紙でやりとりしていたようなことが公に出版されるようになったのだから、研究書の「行間」に当たるような議論を学べるようになったのは良いことだと思う。もちろんだが、既にウェブが普及している現代において、こういう雑誌がいまでも有効なのかどうかは疑問があるけれど、レフェリー制を前提にしたコミュニティでのジャーナル・アカデミズムが維持されている限りは、メーリング・リストでのやりとりが新しく取って代わるというものでもあるまい。