Scribble at 2024-07-02 08:29:30 Last modified: 2024-07-02 10:00:04

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「少なくともAV女優が表舞台にあまり立たないでと思い声をあげるのは、差別ではなくただの区別だと思う」

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「分析なになに」とつけば、いまやエロゲーやパパ活でもネタにしようかという分析哲学のみなさまはともかくとして、科学哲学のプロパーで、元 AKB48 で元 AV 女優という人物の話題を取り上げる方というのは殆どいないだろうから、代わりに取り上げておこう。え? 分析哲学の研究者を差別してる? いえいえ。これは「差別ではなく区別」ですよ・・・とまぁ、こんな具合に使われるレトリックがあり、もちろん多くの方は bullshit だと見做しているのだろう。僕も同意見だ。

物事を分類したり、あれとこれは違うと区別すること自体が差別なのではないなんてことは、学部レベルのゼミで話すような次元の茶飲み話でしかなく、いまどきこんなレベルで社会科学の卒論を書いているのは、差別について考えたことも読んだこともない学生だけであろう。ただ、SNS には高卒とかそういう学歴の問題だけではなく、他の色々な事情で無知無教養であることに加えて無自覚ですらある人々が多くいて、かような大学初年度に社会科学を学ぶ際の通過儀礼として取り上げるような次元の議論を、いまだに一個の思想的なスタンスであるかのごとく大切に抱え込んでいる。

たとえば、ヒトや犬のように性差がある生物種に性という違いがあるのは、字義通り「自然な」事実というものである。こんなことに、理論的な厳密さや完全性を求めるという動機で、議論をややこしくするような異議を唱える者はフェミニストにすらいない。区別と差別とは、何か異なる状況をそれぞれ言い表すための、それこそ最初から概念として区別されている事柄に該当するわけではなく、これこれの違いは区別で、これこれの違いは差別であるといった、区別と差別を分け隔てする基準によって二つの異なるグループに分かれているわけではないのである。あらゆる区別は、それが「自然な」事実としての区別であろうとなかろうと、色々な事情や状況や条件によって、差別になりえる。したがって、職種や産業の分類は法的あるいは行政的な違いだから「区別」であるとは言っても、それは色々な条件によって「差別」になりうるのであり、差別はそもそも人種や性差や業種の区別を前提にしているのである。

すると、次に「区別は差別ではない論」の卑怯者(これは loaded language だから不当な表現だが)が発する言い逃れとして、「僕は・私は差別していない」というフレーズが出てくる。しかし、これも昨今の microaggression に関わる著作や指摘で知られているように、差別というのは当人が誰か(あるいは特定の集団)について差別を自覚したり意図しているかどうかの問題ではないのである。これも、いまや学部レベルと言ってもいい議論だろう。少なくとも、修士課程の学生が学位論文にこんな議論を主要な内容として取り上げるのは、どう考えても学位を授与するに値しないと思う。どうして過去に多くの地域で激しい糾弾が繰り広げられていたのかという事情を少しでも調べれば、その激烈さそのものにある攻撃性や違法性については別の議論ができるとしても、抗議している人々と責められている人々との大きな違い(毎日のように思い知らされる側と、頓着なく暮らしている中で気ままに差別する側とで生じている、まさしく生活の違いというだけにとどまらない違い)について、単純に基礎知識として知らないまま差別を論じることは、人としてどうこう言う問題だけに限らず、高等教育機関において学位を授与すべきかどうかの判定では欠格事由になると言いたい。

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