Scribble at 2024-06-04 10:20:54 Last modified: 2024-06-04 18:33:41

古典を何のために読むかという本は、古典を読む効用なり理由が分かっている者にとっては買って読む必要などないので、僕も書店で何度か見かけただけで手に取ったことすら殆どない(1度だけあったような気もするだけだ)。したがって、そこでどういう議論が展開されているのかは知らないが、テキストを書こうという者にとっては参考になる論点が幾つかあるかもしれない。そして、そういう論点について、僕は実際に読んでいないために知らないので、ここで、あるいは僕の制作しているテキストで重複した議論をしていても、それは仕方のないことでもあろう。

多くの人々が書店の「哲学・思想」といった棚で目にした数多くの本について感じる印象の一つは、おそらく、古典を読むということだけにとどまらず、その解釈を書籍として他人に公表して何になるのかという疑問であろう。東大の偉い先生に読んでもらって答え合わせしてほしいのか、それとも「この本は凄い」とか書評に書いてもらったら満足か。あるいは、何か解釈の「決定版」のような議論を他人に先んじて出版する競争のようなものがあるのか。

もちろん、解釈を公表する理由の一つは、その古典的な著作物の「意味」とか「内容」というものを、一人の、そしてただ一度の読解によって「決める」ことはできず、せいぜい読んだ人々がそれぞれの解釈を公にして他の解釈と突き合わせることによって、突き合わせた人が何を考えるかという、それぞれの営為の中にしか意義なり目的なり価値が無いからだろう。これを、しばしばポスト・モダンの思想と短絡的に結びつけて語ろうとする人がいるわけだが、はっきり言ってこれは学術的・思想的に高尚で深淵な議論など不要な、それ以前の常識だろうと思う。一度だけ読んで内容が全て分かる者などいない。サヴァン症候群の人であっても、1度で文言の記憶はできるかもしれないが、内容なんて分かってるわけがないのだ。だから、通俗本が売れて長野に書庫専用の別荘を買った自称思想家とか、大昔から「編集工学」などと称して浅薄な蘊蓄をマーケティングで日本のおばかさんな出版人に「思想」だと誤解させてきた奴とか、その手の乱読家や多読家に有能な学者など一人もいないのである。

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