Scribble at 2024-06-02 12:08:25 Last modified: unmodified

僕が MD で、宮台真司のようなファシストとか岸くんなんかをおちょくるよりも、もっと無能で平凡な連中のブログ記事とかをせっせと拾い上げて叩き潰したりしてるのは、見方によっては弱い者虐めだと言いたくなる人がいると思う。嫌な言い方だが、国公立大学の博士課程に進んだ後に企業で部長をやってる人間が、地位もなければ学歴もない名もなき市井の一般人が書いたものを吊し上げて、自分の社会的な地位と学歴とを掲げてマウンティングしてるだけではないかと。もちろん、MarkupDancing とは違って、こちらのサイトをご覧の東大ドクターとか旧帝大教授といった哲学プロパーのお歴々にすれば、僕の学歴や地位なんて鼻クソと一緒に弾き飛ばせるていどのものなんだろうけどね。

ただ、僕がそういうことをしている理由として、過去の色々な出来事を、それこそ考古学が扱っている時代から眺めていて強く感じることがあるのだ。それは、社会を変えるのは、結局は一部の政治家や岩波書店の編集者や京都大学文学部教授なんかじゃなくて、やはり大多数の凡人であるということだ。そして、それを書物1冊だとか、あるいは「なんとかの会」を立ち上げた有名物書きのパフォーマンスなどでは、事前に抑制することはできないのだから(これが直前の文の言い換えだと理解できるなら、朝日新聞の記事一つでどうにかなるわけがないという事実も分かるだろう)、僕ら市井の者ができることと言えば、同じく市井の他人が書いているものを各個撃破することだけであろう。

もちろん、僕は方法論的な権威主義者として、権威の名に値しない者から権限や権力を奪い取るための投票行動にも価値や効力を認めるが(ちなみに暗殺やテロや内戦や暴力革命を容認するかどうかは保留だが、僕自身と家族に無用の身体的な被害が生じるなら、理論的・思想的にどうこうなど言っていられないだろう。僕は哲学者であるよりも前に人間である)、どのみちそれが選挙結果として具体的に馬鹿を国会に送らず、馬鹿を国会から追い出すためには、やはり自分の投票行動だけでは不十分なのである。

ただ、だれしも隣近所の人々と直に政治談義を交わすのは難しい。それでマンションの大家さんや管理人さんを刺激して「出ていってくれ」なんて話になれば、天下国家や思想などと言っている場合ではなくなるからだ。したがって、もちろん処世術ではあろうが、見ず知らずの凡人を吊し上げて叩くのだ。

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