Scribble at 2024-04-21 18:02:29 Last modified: 2024-04-21 18:04:42

暮らしの知恵とか、困りごとの相談とか、あるいは知識なんていう大層な話でもいいけれど、そもそもは自分の身の回りにいる家族とか、近所の知り合いとか、同僚や友達や親類などなど、そうした環境でやりとりするものなんだよね。基本は。だって、生まれたときから iPhone で検索できるガキなんていないし、そもそも自分が何を知りたいかってことを検索エンジンにキーワードとしてうまく入力できる人も多くないし、いま現在でも入力したキーワードや文章やプロンプトだけで適度に理解してくれる AI なんてないわけだ。チャットボットは、そうした入力と同じくらい重要かもしれない、僕らの顔色や息遣いや身振りを計測しないわけだし。でも、いずれ計測できるかもしれない、そういう技術的なことは本質じゃない。

結局のところ、インターネットで僕らが無料だろうと有料だろうと読んだりダウンロードしたり、あるいはブログやウェブサイトを運営して書いたりしていることというのは、本来ならかーちゃんやともだちやジジイが教えてくれるはずのことだったかもしれないし、そうあるべきだったかもしれない。もちろん、現代の多くの国や地域で、そんな宮崎アニメみたいな牧歌的な家族やコミュニティなんて、崩壊どころか最初から成立してもいないのは分かっている。こんなことは、社会学の分厚いクズみたいな本だとか、大半がただの復古主義者の作文にすぎない民俗学のガラクタみたいな本を読まなくたって、そのへんのチンピラでも知ってることだ。だからこそ、僕はせめて周りに馬鹿しかいないような状況でも何かを学ぼうとする人のために何か書こうという、自己満足だが自己欺瞞ではないという、哲学者としてあるべきただ一つの理由でこのサイトを運営している。

身の回りで教えてもらうだけだと限界や偏りがあるというのは、事実だろう。それは分かるけれど、インターネットのようなものが江戸時代にあったからといって、みんなが平均して意識高い系や Z 世代みたいな建前ロボットになったかと言えば、そんなことはない。もちろん、身の程を知れなんて前時代的なことを言うつもりはないけれど、いきなり量子力学や細胞生物学や材料科学の大学院生向けのテキストが無料で読めるようになったとしても、それをいきなり読める子供なんて世界中に5人もいない。そのためだけに、身の回りをひとまず信頼して相談したり質問するという基本的な人間関係を軽視するような前提を置いて、コミュニケーションだの教育だの社会だのを語るような人々を、僕はぜんぜん信用も尊敬もできない。確かに、周りの人間は、親だろうと兄弟だろうと近所の大人だろうと同級生や教師だろうと、たいてい無知無教養だし凡庸だし貧しいし、仕事や生活に意欲もなければ、そもそも人として信用に値しないことだってある。そして、僕ら自身もそういう無知無教養で、何かに没頭するほどの熱意をもっているわけでもなければ特別な才能があったり善良だと臆面もなく言えるわけでもないような人間なんだけど、だからといって、インターネットの向こう側に神のような人間がいて理想的なアドバイスを(まさにチャットボットのように)言ってくれるなんてことを妄想することは、僕には非常に、或る意味では致命的なほど危険で愚かなことだと思う。僕は、誰かしらの役に立ったり参考になればいいと思って色々なページを公開しているけれど、インターネットがなかったとしても別に残念だとは思わない。僕はインターネットがなかった室町時代に生まれていたとしても、自分がやりたいことややるべきことを(やれるなら)やったと思うだけだ。

したがって、ともかくネットがあるからこそ考えられることだとか、ウェブがなければ言えないようなことに強く依存してしまうのは、僕はよくないと思う。もちろん、いまは現にあって、日本でそれなりの暮らしをしていれば利用できるのだから、十分に利用すればいいだろう。でも、それがなくなったらあなたに生きる意味がなくなるとか、何の生きがいもなくなるなんてことは、絶対にない。

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