Scribble at 2024-02-11 01:31:10 Last modified: 2024-02-11 01:33:21
もう既にデネットが『解明される意識』を書いた当時ですら、彼のようなプロパーでもフォロー・アップしきれないほどの成果が続々と蓄積されていたのであり、いわんや現代において意識の(少なくとも哲学的な)研究をするにも相当な負担があろう。なんとなれば、ただたんに多くの論説に目を通すことがたいへんだというだけの問題ではなく、それら個々の論説が拠って立つ背景知識や関連分野の理解なり習得にもコストがかかるからだ。
ただ、認識論などの話題でブログ記事を書いている「蒼龍」という人物が指摘するように、どう考えても本来のテーマから逸脱しているような議論については、一定の目配せはリスク対策として必要かもしれないが、それはつまるところ一定の基準で anomaly な展開事例として無視するか脇へ置くことが望ましいのだろう。
蒼龍氏も指摘するように、いわゆる「意識の hard problem」というものは古くから色々な仕方で指摘されたり話題として扱われてきた着眼点である。チャーマーズ当人が明言しているように、なにもチャーマーズの発見した新しい話題でもなければ、学説ですらない。そして、僕も確かに意識について議論するときに考慮するべき大きな話題の一つであることは認めるが、意識をもつと説明されるような生物個体、つまり主体としては殆ど議論する必要を感じない。なぜなら、僕の理解では「意識の hard problem」とは他我問題と同じ構図で扱われるべき同種の問題だからだ。つまり、「意識の hard problem」も他我問題も、何を問われていて何を答えるべきなのかという点で同じ構図を共有していると思う。
かなり雑に表現してみると、こうなる。脳の物理的あるいは電気化学的な組成なり機序なり法則なりを、どれほど全体のスケールにわたって、ミクロなレベルであれマクロなレベルであれ精密に測定したり記述できるとしても、それは全く正確な意味において「それだけのこと」なのである。クオリアだろうと他にどう呼ばれようと、意識にかかわる主観的な事柄が、そこから現象として自覚されたり生じるわけがないのだ。そもそも、それらに因果関係があると考えること自体が錯覚なのであり、物理的な事象として記述されたり説明されることは、それだけのこと以上でも以下でもないのだから、そういう記述でもって意識の(主観的な)はたらきの様子だとか、僕らが何かを感じたり自覚するということを表現してみても、納得できないように感じるのは当たり前であろう。しかし、だからといって主観的な現象の説明や記述が、そういう物理的な記述や説明とは違う何かであるのは、それが存在論として異なる出来事だからではない。そんな、主観的な事象だけの専用ステージとか独演会場なんて哲学の議論には用意されていないのだ。
物理的な記述だけでは意識としてこれこれが起きているかどうか分からないという問題は、それが自分自身であろうと(僕は僕自身の脳で起きている個々の神経細胞の反応なんて感覚してもいないし、観察もできない)、あるいは他人であろうと(これが他我問題であろう)、あるいはゾンビとかいう哲学的な玩具であろうと、あるいはコウモリや明石のタコであろうと、分からないという点では同じなのである。したがって、以前も書いたように、脳の組成だったり機能だったり反応パターンを他の何かへコピーしたり移動しようと、それで意識をコピーしたり移動させたことになるのかどうかという基準がわからないのだから、機能主義や multiple realizability の議論は常に論点先取でしか正当化できないのかもしれないというリスクがありえる。