Scribble at 2024-02-08 19:01:29 Last modified: 2024-02-11 01:38:11

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大津 透『律令国家と隋唐文明』 (岩波新書 新赤版 1827)

今回は書評を書いたり書籍を紹介することが趣旨ではないので、リンクする必要はないと思うが、いちおう確認用にリンクしておこう。何が言いたいかというと(ちなみに「なにがいいたいかというと」と書くときに「言」という漢字というか文字が連続するのは文体として癪に障るため、後の方をひらがなにしてしまうことがあるのだが、もちろん国文法として何の正当な根拠もなくやっている)、僕はこの本について掲載されてるような類の書評が昔から頭にくるんだよね。

特に「美しい夏」とか名乗ってる、匿名だけど実は東大教授ですみたいなプロパーぶったジジイみたいな文章だ。自分では気取った格調高い批評でも書いてるつもりなんだろうけど、内容についての具体的な批評が殆どなくて、ただの文体論とか、ページ数が多いの少ないのという、出版業界の事情も知らない素人論評で埋められている。まったくもって読むに耐えない、こういうのを高齢者が書いてるとすれば、確かに「老害」という言葉も分かる。

考古学を勉強していた小学生時代から思ってることとして、この手の歴史ファンなんて、何億人になろうと埋蔵文化財の保護とか郷土資料や文化の継承について何の貢献にもならないわけ。だまって税金でも払ってろって感じがするね。古文書が読めるわけでもなし、土器の分類や鑑定ができるわけでもない、かといって最低でも修士レベルで学んだりしてるわけでもない、ただ単に自分が読みやすい本を漁ってこしらえた勝手なイメージを壊さない本であるかどうかってことにしか興味がないんだよな、この手の自称歴史ファンとか考古学ファンというのは。なので、こんなのがいくらいても関係ないし、逆に本を探したり情報を探してる人の邪魔になるだけなんだよ。だからこそ、プロパーでも同じことだけど、アマチュアであろうと、「素人でござい、テヘペロ」なんて言い訳を書くだけでデタラメを公に書いていいわけではないと思うんだよね。それは書評でも同じことだ。

結局、こういう愚劣な文章を好き勝手に書いてることが「民主主義」とか「言論の自由」だと思い込んでるからこそ、かような人々にはヘイト・スピーチや芸能レポーターの狼藉を止める真の力がないわけで、皮肉にも僕らのような保守の権威主義者にしか堂々と馬鹿を馬鹿と言ってのける力がないのだ。

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