Scribble at 2024-01-27 10:44:47 Last modified: 2024-01-29 13:18:08
昨日の考古学の話を続けると、考古学や歴史学は史料が限られているせいで素人が好き勝手なことを言ったり書いたりする余地が多く、要するに馬鹿みたいな本とか通俗書が簡単に出版できる。また、NHK の大河ドラマでも分かるように、脚本だの時代考証だのと称してさえいれば、個人の勝手な推測だけで当時はこうだっただろうという想像の話や設定が通用してしまう。それが、ストーリーとして良くできていれば、まるで史実であったかのように刷り込まれてしまう子供や老人が出てくる。
もちろん、僕が小学生の頃にも歴史が大好きな子供なんていくらでもいた。しかし、そういう子供の歴史に対する向き合い方というのは、簡単に言えば好き勝手な想像が通用しなくなるくらい能力や情報に限界が見えてくると、急速に興味や熱意がなくなり、そして歴史ファンを自称する子供の大半は大学受験で日本史を勉強するまでには殆ど歴史についての興味を失う。歴史の本を丸暗記するような「神童」が大学教員なった試しがないどころか、東大や京大へ進学した試しすら殆どないのは、その程度の記憶なんて興味が一点に集中すれば凡庸な子供にでもできることだからだ。そして、世の多くのオタクどもに何の学術的な業績がないことでも分かるように、自分自身の知性や知識や経験という枠内で理解可能な範囲を超えるようなことを要求されると、凡人というのは急激にものを学んだり考えることが嫌になるのである。これが、たいていの凡人が学者になれない決定的な理由だと言ってもいい。知らないことや分からないこと、つまり自分が未熟で無知であることを知ることが愉快だと思えるかどうかという、非常に単純なことで決まってしまうようなところがある。でも、それは切り替えたり醸成するのが難しいマインド・セットであるからこそ、そう簡単に学術研究を志す人は増えないのである。大学院に暇潰しで行くようなやつは、いくらでも増えるだろうけどね。
僕は、自慢でもなんでもなく、小学生の頃からそういう凡庸な事例を見てきて、通俗的な歴史の storytelling であるとか安易な史料の扱いについて、子供ながらに不愉快さを強く抱いていた。そして、それは単に素人やアマチュアに向けられたわけではなく、プロパーの考古学者に対しても向けた場合がある。そして、いま現在でも書店で眺めていると強い違和感を覚えることがある。
たとえば、このところ「理論考古学」という見出しをもつ本がいくつか現れるようになったのだが、それらの目次を眺めて納得できた試しがない。なぜなら、それらの大半が理論的な体系を提示することなく、何か歴史や考古学や遺跡などについての概念操作をこととしているように思えるからだ。いわば、それらは「理論考古学」というよりも「抽象考古学」とか「形而上的考古学」と言ったほうがいいような議論であり、それらの中には例外的に、環境とか文化人類学とか民俗学とか社会心理学とかと関連付けた良質な著作もあるが、大多数はそれらのアマチュア歴史哲学みたいな議論が著者の興味に従って乱雑に並べられているだけにすぎない。かつて、森(浩一)先生からは、これから考古学をやるなら自然科学の勉強は必須だと教わったことがあり、そういう事情もあって昔から「理系」とか「文系」という区別は学術と何の関係もないものだという実感がある。そういう実感を与えてくれるような体系的著作を、せめて理論考古学のテキストには求めたい。