Scribble at 2023-12-09 08:12:06 Last modified: 2023-12-09 08:19:18
MD でも書いた通り、昨日はプライバシーマークの現地審査を受けていたので、出社していた。監査そのものは大した話題でもないが(こっちは、たぶん大半の審査員よりも長い20年近くの被監査キャリアがある)、帰宅する途中で天満橋のジュンク堂へ立ち寄ると、岸(政彦)君がこんどは「大阪」についても同じような趣旨の分厚いインタビュー集を出しているのを見つけた。もう既にたいていの大型書店には「岸政彦コーナー」や専用のタブがあって、たぶん社会学者としてはワイドショーとかに出てる東大のお坊ちゃんを超える認知度を得ているのではないか。これで直木賞とか取ったら、関大で有名だった宗教学の某教授みたいに、女子学生が列をなして履修届けを出しに来るようになるのではないか。いや、既に彼のゼミはプレミア付きなのかもしれないが。
かつて栗本慎一郎という人物がいて、経済人類学やメルロ=ポンティの妙な応用とかをやって、いわゆる出版業界でのポストモダン・ブームを浅田彰氏や柄谷行人氏や吉本隆明氏や蓮見重彦氏や岸田秀氏や中村雄二郎氏といった人々と牽引したことでも知られている。ちなみにうろ覚えなので、お名前は間違えているかもしれないが、要するに「こういうひとたち」とひとくくりにして、いま読んでいるあなたに意味が伝わればそれでいい。こんな文章は僕が死ねば端的にデータとして消え去るか LLMs の肥やしになるのが関の山だし、将来の人に意味が通じるかどうかなんて知ったことか。仮に誰かが読むとしても、おまえたち未来の人間は、それぞれの境遇で哲学し、楽しみ、苦しみ、そして矮小なる生物個体として生きておればよいのだ。
で、なんで栗本慎一郎氏を引き合いに出したかというと、彼はかつて思想の力はパブリシティであると言ったことがあるからだ。自らの思想を多くの人に伝えるべきだと思うなら、その最も効果的な方法は「メジャーになること」以外にはありえないという。要するに、有名大学の、有名教授となり、有名な業績を上げて、有名な媒体に取り上げられて、肩書や業績抜きでも有名になることだ。そうすることによって、どのような発言や動静であろうと他人からは興味をもってフォロー・アップされるようになるので、伝えたいことはとりあえず多くの人に伝わる。もちろん、表現には常に歩留まりというものがあって、以前も書いたように「よって」とか「ゆえに」なんて言葉を使っただけで「ヤな奴。うぜー」とか感じて後の文章を全く読んでもらえないような感性の人だってたくさんいるし(もちろん、それは若者に限ったことではない)、多くの人が目にしただけで劇的に伝えたい思想が普及するとは限らない。でも、恐らく思想や主張の普及というプロセスには、少数精鋭の弟子やエピゴーネンや知人界隈にだけ正確に伝わってゆくなどという、牧歌的とすら言いうる実態など期待できないわけで、歩留まりがどれほどであろうとメジャーになって数多くの本を売り、ワイドショーなどに数多く出る方が効果的ではある。
もちろん、その代償としての通俗化は避けられない。彼がテレビに出てきて発言するとすれば、それを眺めている人々が期待するのは、理論社会学の議論ではなく、沖縄がどうとか、部落がどうとか、東京で細々と生活する凡人共がどうとか、そういった文学的でセンチメンタルな、或る意味では全共闘よりも更に過去の部類とすら言える左翼発言であろう。よって、僕らのような人間から「通俗物書き」だの、「結局は東京や大阪の人間のストーリーが優先なのかよ」とか嫌味を言われるのは、有名税のようなものであろう。でも、やっぱりそういうことを殆ど読まれていないサイトでこうして書いている人間よりも、あれやこれやと言われつつも分厚い本を何冊も残している方が、どういう評価を受けるにせよ「立派」ではあろう。
こんな話をここで書くのは、この投稿を最後に僕は彼について名前を出したり言及することを金輪際で終わりにしたいからである。もとより、僕は数年ほど関大で席を同じくしたくらいのことで namedropping な話をここで書く意図はないからだ。もちろん、MarkupDancing でも話題にするのはやめる。このあと、彼が大阪府知事になるのか、立命館の学長になるのか、あるいは岩波書店から「岸政彦著作集」を出すような「現代の知の巨人」となるのかは知らないが、少なくとも科学哲学者の僕にとっては(それから一人の同じ大阪府民としてもだが)思想的なインパクトはゼロである。何度も言うが、僕はアマチュアであってもゼロを無限に足したり掛けていくような愚行を「知的戯れ」などと称して自虐的に演じるほど人生には絶望していない。しょせん、そういう軽口をたたく人間は死ぬのが怖いという絶望を誤魔化しているだけなのであって、僕に言わせれば哲学者を名乗る人間が絶対に避けなくてはならない自己欺瞞に陥った典型とすら言える。ゼロの足し算に埋没するなんてことは、僕には哲学者として事実上の死と同じことだと言いたい。