Scribble at 2023-11-09 10:12:04 Last modified: 2023-11-09 10:27:59

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The discipline today finds itself precariously balanced between incomprehensible specialisation and cheap self-help

Whither philosophy?

既に日本の国内でも多くの大学では「哲学」と称してクリシンとかアクティブ・ラーニングのディベート合戦とかをやってるし、メインの教科書としてお勉強がどうの、小平の高速道路がどうの、あるいは『嫌われる勇気』といったガラクタを学生に読ませていたりする。もちろん、僕らのような哲学者から言えば、制度的な高等教育で何をやっていようと知ったことかという気もする。だって、そのせいで「哲学なんて、しょせんは小難しいだけの自己啓発だろ」みたいな理解が世の中に共有されたとして、それで僕ら自身が哲学することに何の影響もないからだ。書店の「哲学」という棚に続々とビジネス本やらマインドセットや瞑想に類する本が並んだところで、やはり僕らが意味している哲学を志す人は別のリソースなり経路を見つけようとすることだろう。簡単な理屈だが、それが「哲学」と呼ばるかどうかは、本質的な問題ではないからだ。もっと言えば、いま僕らがやっていることを大勢の無能なバカが大学で教えていることと同じ名前で呼んでいるのは、単なる歴史的な経緯や偶然やマーケティングのせいであって、何の必然性も正当性もないことなのである。

とにかく僕は昔から、それこそ小学生時代に考古学を志していた頃から、プロパーによるこの手の自意識話が大嫌いである。なので、いまも「分析哲学」とか「科学哲学」をテーマにした議論や著作物には全く目を通す気が起きない。最近は日本でもこうした自意識の話が出版物としても出回るようになっているが、つまるところ、才能の枯渇した(もしくは最初から英語力以外はなかった)連中の茶飲み話であろう。(ちなみに、思想史とか知識社会学として分析哲学や科学哲学の展開などを研究することには価値があると思う。そういう研究と、この手の与太話とはぜんぜん違う。)

考古学でも、当時は開発行政の影響で雑な発掘調査が行われ、森浩一先生などはあまり良いこととは思っていなかったようだが、発掘や測量や遺物のトレースなどを専門に受注する業者まで現れた。そこで、多くの考古学者は、「我々は歴史学者なのか、それとも(言葉は悪いが)土方なのか」という話をしていたわけである。でも、中学生くらいで生意気なことを言っていた僕からすれば、そんな議論は全くの暇潰しでしかないように思えたし、そういうところでプロパーのくせに立ち止まってしまうこと自体、学生時代にプロパーとして自分が携わる「仕事」とは何なのかを、なんにも考えていなかった証拠だと思った。原田大六氏のように手弁当でやるならともかく、文化財行政の一員あるいは大学という組織の一員として学術研究に携わる以上は、その実務が(必ずしも営利という意味は含まない)「ビジネス」であることは明白であろう。なので、考古学者は学者でもあり「土方」であってもよいのだ。要するにプロパーの考古学者とは学者でもあるし(大学にいれば)教師でもあるし、(行政機関にいれば)公務員でもあるというだけのことだ。こんな自覚すらなくてプロパーになって、いまごろ専門誌に「ぼくらって、何」みたいな話を書いてるなんて、とんだ成金小僧どもだと呆れたね。いつまでも、おかーちゃんからもらったお小遣いで洋書を買ってたような頃の気分から抜けきらないからこそ、そんな自意識の話に足元をひっくり返されるのだ。

ともかく、この手の議論はしてもいいけれど、しょせん僕からすれば expressive therapy の一種であって、人前に公表するような文章ではないね。

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