Scribble at 2023-11-10 10:19:02 Last modified: 2023-11-10 16:20:17

MD では、基本情報処理技術者試験のテキストについて、漫画やイラストで描くことによって、余計に要点が分かりづらくなってしまうと指摘した。単に著者がイラストを「上手に描ける」というだけでは、構成力があるという保証にはならないからだ。出版社の編集者ですら、そんな基本的なことが分かっていないのは、彼らの多くが皮肉にも技術書や専門書しか編集した経験がなくて、漫画の編集経験がないからであろう。無論だが、『週刊少年ジャンプ』の編集者で、絵を上手に描けるだけで良いなんて基準で作家を選ぶ者などいない。

しかし、こういう教科書や参考書の書き手に多いのが、読者とはこうであろう、生徒や学生はこう読む筈だという思い込みがあり、しかも致命的に間違った思い込みが強いということである。出版社に依頼されてものを書くというていどのことに、何か選民思想でも生み出し醸成するような原因があるのだろうか、自分たちは audience を理解しているという酷い錯覚が生じるようだ。したがって、対話篇形式の通俗本によくあるような、「普通の高校生」と称して灘高校や開成高校の首席かという数学の知識や推論力を備えた若者を登場させて、プロットどおりに察しが早い会話を展開するといった構成を編集者が平気で採用してしまう。大手の出版社だと、編集者自身も科学部や文藝部といった分野ごとに配属されていて、それなりに素養があるからか、自分たちが販売しようとしている初心者や素人よりも多くの予備知識や脈絡の理解をもとに書籍を編んでいるという自覚なり反省を失ってしまうわけである。

僕は、ひとまず補習塾で中学1年生に理科を教えたり、ファクシミリと電話を使ってリモートの家庭教師として小学生に算数を教えたり、あるいは修士課程の学生を TA として指導したり、いまは企業で従業員に研修を20年くらいにわたって実施してきた経験などから、いかに平凡な子供や生徒、いやそれどころか神戸大学の修士課程の学生や40前後の社会人ですら、自分が携わる仕事にかかわる予備知識や色々な関連知識を欠いているかという事実を心得ているつもりだ(もちろん、それは相対的な話であって、もちろん僕自身も・・・たぶんここをご覧のプロパーに比べたら多くを欠いているのであろう)。

たとえば、大学で学生を相手に教えている方々は殆ど分からないと思うが、小学生や中学生の多くは「したがって」という表現にすら堅苦しさを覚えたり、文章どうしのつながりが分からないという反応を示す。しかし、それが子供の無知による反応だと高をくくっているような人々も多く、特に MD では何度も書いている話だが、数学のテキストや参考書の多くが論理の飛躍だとか説明のデタラメな省略、あるいは後のページで定義する筈の専門用語を冒頭で使うといった、有り体に言えば物書きや教師としての基本すらなっていない態度でものを書く。そして、それを文化的辺境国家の数学コミュニティでは「行間を読む」などと称して無用な神秘主義を崇拝する。よって、この国で数学者といえば gifted のような、計算は得意だが生活力がなくて頭のおかしい連中がやるものだという偏見がはびこるわけである。

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