Scribble at 2023-10-22 08:00:19 Last modified: unmodified
日本で、というか日本人のブログとかウェブサイト、あるいは書評とかアマゾンのレビューでもいいが、その多くに見受ける傾向として、殆ど内容を評していないという事実を挙げられるだろう。いちばん酷いのは、もちろんアフィリエイト目的のクズみたいな書評ブログの記事であって、単に目次を列挙してみたり、あるいは出版社の紹介文をそのまま貼り付けるだけの、ほぼ「ポップ」と言って良いような文章が掲載されている。確かに、それをポップだと思えば店頭で販売されている本を眺めるに等しいと言えるのかもしれないが、そこまで善意に解釈する必要はなかろう。
たとえ、そういうアフィリエイト目的の書評ブログが何らかの意味での田舎者的な愚直さで運営されていようと、知識や情報に関わる愚直さは、その無邪気さそのものが社会正義に照らせば「罪」である。そして、かようなスケールの観点から社会正義を持ち出して語る(資格や素養があるかどうかはともかく)動機が、僕らのような人間にはある。当たり前のことだが、僕は保守の人間であっても右翼ではないので、そういう動機があるというだけで尊重してもらえるなどと期待するスケベ根性はない。これはただの(専門に研究している人間として、こんな言い方をするのは多少の戸惑いがあるにせよ)「因果関係」を語っているだけである。よって、その結果についての是非は吟味されてしかるべきであろう。
なにやら脱線気味だが、ともかく日本人がブログや個人サイトや商品のレビューで書いている「書評」と称する類の文章は、良くても出来の悪い読書感想文が関の山であり、まだそういう本人のコメントがあるだけマシというものだ。実際には大半が、いまとなっては ChatGPT が同等の文章を正確・大量・即座に生成できると言いうるような、そしてそれゆえ我々から言えば「ゴミ」としか言いようがないものなのである。これは、もちろん哲学においても同様だ。そもそも日本の哲学プロパーは殆どブログや個人サイトを運営していないので、さほど事例としては多くない。でも、そこに掲載される論文や書籍の紹介記事の多くは、ぜんぜん本人の読解とか評価を表していないのであって、せいぜい英語が正確に読めない学生がレポートを書くネタとして便利に使えるていどの価値しか無いと言える。ちなみに勘違いされると困るのだが、具体的に特定のブログを念頭に置いて当てつけを書いているわけではない。