Scribble at 2023-10-15 18:15:51 Last modified: 2023-10-17 10:00:03

当サイトでは既に以前も触れた話題だが、存在論と認識論の circulation あるいは哲学としての優先権をめぐる争いというテーマは、やはり僕には一つの混乱でしかないと思える。アリストテレスの『哲学のすすめ』という短い著作を読んでいてすら、彼はそのような対比があるとか、その対比においてどちらが優先であるなどとは語っていないし、考えてもいないように思える。

もとより、われわれは物質の本質が(構成要素であろうと力であろうと)何であるかを知らないし、物質がなんでそもそも在るのかも知らないし、遠い未来にどうなるかも知らない。通時的なスケールにおいても、あるいは共時的なスケールにおいても知らない。だから、それをどうやって知ることが正しく知ることになるのかという基準も実は分かっていないのであって、何をもって何を知ることが正しく知ることであるかも知らないのである。要するに、存在論が優先するとか認識論が優先するなどと議論する以前に、われわれはそれらの概念でもって何を言い表わそうとしているかも、本当のところは自分たちの都合で定義しているだけであって、言い表わそうとしていることを的確に定義しているかどうかも分からないのだから、見た目の循環(正しく知らなければ、知ろうとすることが何であるかを予め目標として定められないが、それを定めておかなければ正しく知るということが何を目標として知ろうとすることなのかも分からない、という)は、結局のところ分からないことをもってして分からないことと比較しているようなものである。

僕は昔から「君は認識論哲学をやっている」と言われては、或る種の非難めいたコメントを受けてきたのだが、僕に言わせればそれは科学哲学における偏見にすぎない。というか、歴史的な経緯でそう思い込んでいるだけの風習みたいなものだと思う。そもそも、われわれが簡単に「認識」などと呼んでいる何かが現にはたらいている認知(能力)の結果でないとすれば、そこには科学の成果を利用して一定のコミットメントを含む、自律した理屈があってしかるべきであろう。そして、そこには当然のこととして何を対象にしているかという前提が必要とされる。かたやわれわれが「存在」と呼んでいる何かが現にある事物の表面的な様子というだけではないとすれば、そこには科学の成果を利用して一定のコミットメントを含む、これも自律した理屈がなくてはならない。要するに、これらの自律した理屈に循環など最初からないのである。哲学の基礎に哲学的な結論がないといけないという、最初から自己撞着した発想で認識論と存在論を理解しているからこそ、循環しているかのように思い込むことになるのだろう。

われわれは根本的に分かっていないという厳粛な(おそらく)真実を目の当たりにしたり自覚するなら、存在論と認識論(という区別そのものも怪しいのだが)のどちらが優先するべきなのか決められるという思い込みこそ、積極的に避けるべき自己欺瞞というものであろう。

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