Scribble at 2023-09-18 10:17:47 Last modified: unmodified

蔵書のうち文庫本と新書を片付けようと仕分けしている。仕分けであるから、いったんは関心があって手に入れながら一読していないものも処分するつもりだ(ひとまず関心があって所持していたという事実は残しておくが)。そういう本には、たとえば『霊の真柱』などがある。かつて、足立巻一氏の『やちまた』で短い評伝を読んだという経緯から、何かの参考にと手元に置いていたのだが、もうこんなものを手に取る必要を感じない。そして、これを一読していないせいで、何か哲学者として致命的な錯誤を犯すなんてリスクは、とても考えられないからだ。

そして、それ以前に、少し中身に目を通せば誰でも分かるように、学問なり学術というものが一定の慣行なり制度として整備されたり考案されたり確立していない時代にあっては、こういう人々も含めて色々な先人たちが事績を残してきた。そして、もちろん古典として残すべき業績も数多くあるし、誰かの役には立つであろう資料として多くの文献を保存したり残すことには意味があろう。しかし、その内容において、哲学なり思想として何の参考にするべきものもないと言いうる著作物もあるわけだ。長い年月なり、当時としては莫大な金銭を投じて、多くの著作を買い集めたり、色々な土地へ旅したりして、膨大な分量の資料を集めるという作業は、はっきり言えば素人でもできる。しかし、その集め方や史料批判は素人には無理だし、ましてや平田篤胤のような思想と言いうるのかどうかすら怪しい(いまの言葉で言うならただの発達障害ではないか)と思える人物の著作を、科学哲学者が読む必要があろうかと思うと、まぁふつうないわな。そして、こうして華麗に切って捨てることもまた一つのコミットメントであり、それをやるにはやったなりの業績を残す責任が(たぶんアマチュアであっても、こうして公に自分の判断を述べている以上は)あろう。

ということで、俺は資料をたくさん集めたってだけの素人が書いたものなんかに用はないんだよ。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook