Scribble at 2023-06-12 15:19:48 Last modified: 2023-06-13 10:20:58
僕が哲学の通俗本に数多く見られるような、デタラメで殆ど考察の跡がない、プロのデザイナーの一人としても「クズ」としか言いようがない挿絵やイラストや図表の類を憎んでいる理由、そう憎んでいると言っていいのだが、その理由は幾つかの経験とか経緯の組合せである。何か一つのきっかけや考察から結論としてこういう態度をとっているわけではない。したがって、逆に言えば僕が納得できるていどの成果を示してもらうには、そういう幾つかの脈絡で十分だと評価できなくてはならない。
たとえば、イージーなイラストや図式化に(憎むと言う程ではなくとも)疑問を覚えるようになった一つの経緯は、MarkupDancing のページもご覧いただいていれば分かるかもしれないが、足立巻一氏の『やちまた』を読んで、盲目の国学者であった本居春庭の事績を知ったことだろうと思う(これはあくまでも遡及であり、過去の自分自身についての解釈にすぎないが)。それから視覚障害や聾唖など身体障碍にかかわる教育とか福祉行政について知ることが多くなり、もちろん日本では視覚障碍者やディスレクシアを考慮した哲学の出版物どころか、既存の出版物を点字や朗読で視覚障碍者に対応していく作業も進んでいない。法律では、点訳は著作権法の規制を受けないのだから、要はやるかやらないかの話でしかないが、これは一向に進んでいないわけである。せいぜい、昨今の大学の哲学と言えば、「女子供」(フェミニストや Z 世代)にウケのいいパフォーマンスをするのが関の山であろう。ちなみに自由な点訳は主体も問われないので、誰でも自由に点訳版を制作できるし、著作権者に承諾を得ることなく販売すらできる(もっとも、点訳版の本は100部売れたらベストセラーという市場のようだし制作した書籍を他人が勝手にコピーして販売できたりする)。
正直、何の哲学的な意義があるのかまるで分からないタコやゾンビの話を延々と続ける暇があったら、分析哲学のプロパーや出版社は「見えない」という状況を調査したり理解することから得るものの方がはるかに大きいと思うのだが、どう考えているのか。もちろん、僕は都内の軟弱インチキ左翼どもとは違うところで書いているので、岩波書店の意見なんて聞きたくもないが、サバイバルだの暇と退屈がどうだの勉強がどうといった紙屑を、単行本を指先でタップして何万円でも買える東大の受験秀才どもを相手に売りまくって長野に別荘を建てたり政府の何とか委員になって、それで何になると言うのだろう。貴殿らは本当に哲学をこそ自分自身の生き方に適用しているプロパーなのかね。実は家庭菜園の経験だけで大学で食料自給率を語ってるような手合いではないのか?
[これはヘイトじゃないよね。]