Scribble at 2023-05-15 15:15:17 Last modified: unmodified
"Attempto" というのはラテン語で "I dare" という意味があって、ACE が "controlled" であることに関連しているのだろう。ただ、表面的には "Plain English Movement" みたいなものに見えるけれど、結局のところ昨今の情勢にからんで GPT-4 を始めとする大規模言語モデルに人間様の方が最適化した方が色々な意味で効率が上がるということなのかもしれない。地味にオーウェルの "newspeak" へと漸進しているようにも思えるが、こうやって気づかれるようではいけない。ただなぁ。気づかれて騒がれてもスルーしつつロクでもないことを堂々と続ける政治家もいるし、欠陥部品を使って車を修理したと言い張る中古車ディーラーもあるし(おっと、ビッグモーターの悪口はそこまでだ)、わりと明け透けに悪事や point of no return へ突っ込んでも良くなってるんだろうか。
最近の若者に蔓延してるらしき、リバタリアンの皮を被った退廃的な傾向、あるいは『バビロン』とかいう自殺を推奨する社会を待望する(表面的には否定できても、現実にそうしたいという人を殆ど止められないので、現に日本は先進国でも突出した自殺大国のようだ)ラノベにも見られるとおり、リセットどころか「人生のサ終」でいいという考え方は、僕は哲学者として書くと原則として止められないと思う。「いいこともある」なんて理屈は、「わるいこともある」という、それこそたいていの凡人にとって避け難い事実に比べたら気休めでしかあるまい。ましてや、妄想が肥大化してしまい、平凡な生活こそ「わるいこと」の中に回収され、萌えキャラがメイドになってくれるか学校がハーレムにでもならない限りは生きていても「いいこと」なんてないと思ってしまうような連中がビルから飛び降りるのを、僕は止める気にはならない。どういう倫理学の小理屈をひねり出してこようと、それは間接的には国の税収や雑用仕事をする人員を維持するために生きてくださいみたいなことを、死ななくてもいい境遇にある人間として言ってるだけであろう。特に生命倫理学のプロパーなんて、たいていは政治の安定した先進国で暮らしてる、自ら死ぬ必要なんてまるでない金持ちのやる学問だしな。