Scribble at 2023-05-11 20:40:31 Last modified: 2023-05-11 20:53:39
なるほどね。アマゾンで500円くらいで投げ売りされてるのを見つけて、ドゥルーズを都市計画とか意志決定とかアセスメントに活用するなんて、これまた奇妙な議論だなと思っていた。まるでどこかの東アジアの辺境国家で「サバイバルに使える哲学」とかイキってウンコ議論を紙に印刷してる連中のようではないか。そして、著者をさきほど簡単に調べてみたら、なんでこんなことをイギリスの大学で書く人がいるんだろうと思ったら、疑問は氷解した。著者は哲学科の教員ではないし、そもそもポモに限らず哲学を濫用することで昔から有名な建築学科の出身だ。
僕は、哲学の議論や概念を哲学という脈絡だけで議論しているのでは不十分だという、脱構築批評の類は支持している。もちろん、高校時代はラッセルやデューイよりもポール・ヴェーヌやデリダやフーコーを読んでいたのだし、それなりにポモの洗礼は受けて、いっときは栗本慎一郎の著書を何冊も読んで現象学を学ぶ方に傾きかけたことすらある(もちろん『論理学研究』も触れたし、『形式論理学と超越論的論理学』は関大の近くにある古本屋で原書すら手に入れた)。また、他の分野で哲学の議論を利用することに何か歪んだ縄張り意識や専門家としての特権や優先権みたいなものがあると思っているわけでもない。量子力学の有能な人材は、プロパーの科学哲学者よりも優れたクーンの「使い手」になりえる筈だ。でも、たいていはラッセルやクワインやデリダに匹敵するほどの業績などない凡人なのだから、哲学者が都市計画論を(読書したヒントとしてはともかく、公の出版物でイージーに)哲学に持ち込むべきでもないし、その逆もしかりである。