Scribble at 2023-03-22 16:19:29 Last modified: 2023-03-22 16:42:34

Facebook にも少し書いたことなのだが、ここ10年くらいの間に、歴史学者として殆ど業績がない人物の『ホモ・デウス』なんていう雑な本が大流行したせいで、日本でも三流大学の学長が手を変え品を変えて色々な通史の俗書を書きまくっていたりする。

あるいは、最近では「人新世」なんていう思い上がったキーワードを振り回す雑な学者も増えた。簡単なことを言って申しわけないが、例えば人類の技術なんて地殻運動を変えられないことは明白なんだよね。そういう、たかが地表のセコい層に生息してる些末な生物が、地球のいったい何を支配してるかのようなことを言うのか。

学問や思想として新しい発想の余地がなくなったかに思えると(そう思い込むのは学者として凡庸または無能の特徴なのだが)、バカげた大風呂敷を広げるエンターテイナーが学者にも増えるのは、大昔からの伝統みたいなものである。あるいは、三流の YouTuber とかが時間稼ぎとしてよくやる「振り返り」みたいな話で、行き詰ったという自覚をもった人たちは、たいていイージーに過去の業績をまとめたがる。「分析哲学史」なんていう、実は哲学的に言ってどうでもいい好事家の与太話に血道を上げる人が続々と増えているのは、それも一つの理由であろう。

明白かつ単純なことを言うと、その手の片手に収まる文庫本に学問の業績を「豆単」のように雑な仕方でまとめ上げたかのような通史だとか、アホみたいなレベルの hindsight で埋め尽くされた論文を量産してみても、それが5ちゃんねるの「今北産業」さながらの世間話を越える何かとして学術的に貢献できる(いや、一般人の思想レベルに何か影響する)なんて、とても羞恥心を捨てなければ真顔で口にできまい。君らは、それをやって哲学者として過去の業績や古典になにごとかを学んだ以外の何を専門にやったと言えるのか。

また、基本的なことを聞くけど、彼らはそもそも歴史学や比較思想史を学んでいるのかという疑問もある。これは、当サイトの "Street fight" で書いたような、自然科学の博士号をもっていなければ科学について語るべきではないなどという、自称理系(実際には理系の修士すらもってない低学歴に限って、学部を出ただけで好んで言うわけだけど)の屁理屈とは違う。真面目になにごとかの歴史について語るのであれば、別に学位なんて持ってなくてもいいけれど、せめて歴史について学んだり議論する素養は求められていいわけである。それが分析哲学に関する茶飲み話なら好きにすればいいが、出版したり学術誌に論文まで掲載するなら、そういう素養が求められても当然であろう。

というわけなので、そういう素養がある(少なくとも考古学では中学生の頃に研究者となるべくプロパーから嘱望された時期もあるので)人間に言わせれば、冒頭で紹介したような雑な人類史とか通史を読んだり書いてる暇があったら、もっと堅実な調査とか研究をやろうぜという気がする。学問は、そういうことの積み重ねしかないわけで、ラッセルは重要だ、フレーゲは偉大だ、ヴィトゲンシュタインは分析哲学なんて大嫌いだったとか、そんな雑な話を繰り返して何になるのかと言う気がする。それとも、そういう本を読んだ子供が何かの有名人になったとき、インタビューや自叙伝で「子供の頃に読んだ誰それの『しかじか』という本がきっかけで…」とか言ってもらいたいなんてスケベ根性を持ってるんだろうか。超訳ニーチェを読んで哲学したいと思ったとか言ってたアイドルがいたけど、さてどうなったことやら。

それ、哲学者どころか哲学の研究者の態度じゃないよね。

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