Scribble at 2023-03-06 10:46:58 Last modified: 2023-03-08 12:36:15

凡俗の特徴として、自分が勉強したり調べたり考えたりしなくても「分かりやすい」ということを最上の価値(つまりは「自然」)だと思い込んでいるという特性がある。よって、テレビ番組は放送の目的が癌患者のケアであろうと LGBTQ の権利であろうとウクライナで殺された人々の話であろうと、果てしなくポピュリズムの傾向に走るし、大学の教科書はどんどん劣化してゆく。大衆というか、できるだけ多くの人々から着目されることが収益なりヘゲモニーの奪取や維持に必要であるため、企業人であろうとオタクであろうと分析哲学者を名乗っている人たちであろうと、かように凡庸な人々の思考というものは常に、「啓蒙」の名を借りたポピュリズムに走る他なくなる。なるほど、住宅ローンや子供の教育費、それから親を預けている介護ホームの料金は心配だろう。

もちろん、哲学者だからといって、そのような凡俗の関心とか特性を侮蔑しても無意味である。少なくとも、社会科学的なスケールと水準で言って、それを侮蔑したところで無意味であろう。それを侮蔑するということは、すなわち全ての人が学術研究者だの哲学者になるべきだと言っているに等しいからだ。そんな社会は、僕は別の意味でクレイジーだと思う。

でも、こういうことを言うのは「エリート主義」だと言う人がいるし、大学院を出ている人間が既得権益を守ろうとしているにすぎないと言う人もいる。国家官僚(の一部)が思い描くように、国民や凡俗はバカのままでいてくれるほうが御しやすいというわけだ。しかし、それは敢えて放置している人間の考え方であって、知識とか技能というものは、もちろん得手不得手もあるし興味のあるなしもあれば利害関係など、色々な要因であらゆる人が学んだり習得したり関心をもつものではない以上、誰かが専念したり、誰かがそれで金を稼いだり有名になったり、あるいは嫌われる勇気だお勉強だと紙屑を世間にばら撒いて、彼らの言う「哲学」とやらをわれわれ哲学者に代わって売り込んでくれるわけなので、これを止めるだの、あるいは何らかの管理手法や法律で規制したり制御するなんて発想の方が異常というものであろう。それは複雑系なんとかという、実際のところサンタ・フェ研究所であろうと目覚ましい業績を打ち立てたためしがないような数学の「ユーザ」などいてもいなくても、だいたいにおいて昔から多くの人が実社会は多様だし複雑だし簡単には制御できないと気づいていることを、改めて強調しているだけにすぎない。

敢えて言えば、僕らは「そうであること」を心得ているという意味では分かっていない連中に比べて「エリート」かもしれないが、そんなエリートは学歴や職業や年齢に関係なく世の中に大勢いるのだ。そして、僕らはそれについて根本的に無力であるという自覚があればこそ、「エリート」だの何のという言葉はただのレイブル(ラベル)にすぎないということも知っている。もちろんだが、そうであるからといって人が何も学ばなくてもいいと言っているわけではないし、ましてや馬鹿はそのまま暮らしていればいいと言っているわけでもない。なぜなら、「そのまま暮らして」いれば物事はおおよそ悪化するからである。したがって、僕らが哲学者として何らかの批評やら主張を繰り返すのは、最低でもそういう意味での悪化を食い止めるために有効だと思えるようなことだけなのであって、そこから更に「上に引き上げる」ようなことはしていないし、それは無理と言うものだ。なぜなら、本質的に自らの関心とか動機とか意欲を引き上げるのは、他人にやれと言われてやるようなことではないと思うからである。やれと言われなければやらないのであれば、そういう連中には何も期待することはない。ロボットあるいは新興宗教の信者と同じだからだ。

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