Scribble at 2023-01-06 08:57:37 Last modified: 2023-01-06 08:57:46

フレッド・ドレツキとアーロン・シュナイダーが公表した "Causal Irregularity" (Fred Dretske and Aaron Snyder, Philosophy of Science, Vol.39, No.1, March 1972, pp.69-71) という短い論説がある。それによると、次のように議論が展開される。

あらゆる個別の因果関係は因果的な規則性(タイプ C がタイプ E を引き起こすという規則性)の単一事例であるという考え方が広く受け入れられている。だが、そういう学説に整合しない事柄もあるのではないか。例えば、箱 R は乱数を引き出す装置だとしよう。それを起動すると 100 個の異なる状態からランダムに一つの状態を引き起こす。「状態」と言っても具体的ではないので、仮に 1~100 のうち一つの整数を表示デバイスへ出力すると考えよう。全ての状態はそれぞれ等しい確率で出力されるとすれば、当然ながら或る試行の結果として整数 17 が出力される確率は 0.01 である。さて、この R という箱に短銃を組み込んで、17 という整数が出力された場合には短銃から銃弾が発射されるようにしておき、銃口を隣に座っているドレツキの頭に向ける。そして、適当な機会に R を起動したら隣に頭のない哲学者が座っていたとしよう(このような事例を使った報いである)。すると共著者であるシュナイダーは、私に向かって「お前が彼を殺した」と言うかもしれない。あるいは、「お前は彼の死に責任がある」と言うのかもしれない。

しかし、「タイプ C がタイプ E を引き起こす」という規則性は、ここには見られない。或る場合はドレツキに何も起きないが、或る場合はドレツキにとって面白くないことが起きる。だが、どちらにせよ我々が箱 R に対してやったことは同じタイプ C に属することがらである。したがって、仮に箱 R の起動と、ドレツキにとって嬉しくない出来事がそれぞれタイプ C やタイプ E と見做せたとしても、「全く同じ状況のもとで タイプ C の何かがタイプ E の何かを、一般的にすら引き起こしたことにならないのは明白である (it is clear that in identical circumstances something of type C will not even generally be followed by something of type E)」。したがって、われわれは原因なしに結果を引き起こせると考えるか、あるいは受け入れられている規則性なしに何事かを「原因である」と言いうるのでなければならない。

以上の議論に対して、スティーヴン・ロアーズが次のように述べている(Steven Lauwers, "A Reexamination of Causal Irregularity," Philosophy of Science, Vol.45 (1978), pp.471-473)。

私が箱 R を起動したことは、ドレツキの不幸な最後に対する INUS 条件になっている。つまり、私の行為はドレツキの死に対する、十分だが必要でない条件のうち、不十分だが必要な一つの要因に成り得たのである。ここで「成り得た (could)」と言っているのは、実際にドレツキが死んでしまう確率は 0.01 だからである。そして、この分析に従えば、結果が実際に起きる必要はなく、したがってタイプ C のもとでタイプ E が生じるという規則性は、私の行為がドレツキの死ぬ確率を引き上げた (it has an increased chance of being killed) という関係に保持される。私はドレツキに個々のケースで意図的に死を与えることはできないが、死ぬ確率を引き上げたことに変わりはない(それは結果として 17 以外の整数が出力されるとしても、全く起動しない状態から 0.01 の確率に引き上げたことに変わりはない)。したがって、ドレツキとシュナイダーの事例は、規則的かつ因果的であるか、あるいは不規則かつ因果的でないかのいずれかなのである。

さて、原因を INUS 条件だと考えることがドレツキらに対する批評となり得ることは分かっても、その前提そのものが正しいかどうかは別の話であろう。この場合、箱から短銃への電気配線が正しく稼働することや電気が通っていることは、ceteris paribus なファクターとして固定される。そして、それらが必要条件を構成するからこそ、R を稼動させる私の行為は「十分だが必要ではない条件」となる。そして、何かが R に落下して R が起動するわけでも誤作動で起動するわけでもなく、私こそが R を起動させるがゆえに私の行為はドレツキの面白くない未来の原因となり、十分ではないが必要なファクターとされる。だがしかし、「ファクター」とか「条件」とか「要因」などと言い換えてみても論理的な特性が何か変わるわけではない。

この他にも指摘しうる点は幾つかあるだろう。第一に、ドレツキは R の起動による確率に依存した原因がなくとも死亡しうるので、私の行為が彼の死に対する必要条件でないのは、INUS 条件を持ち出すまでもなく当たり前のことである。第二に、INUS 条件を上記のような確率に依存する事例に当てはめてもよいかどうかは自明ではない。そして第三に、そもそも因果関係を論理的な必要条件や十分条件で定義するというアプローチは、分析哲学においてはアーサー・バークス以来の研究史があるとは言え、決して因果関係の哲学において広く認められてこなかった見解である。それが、たとえ "causal talks" や "causal explanations" という話題に限定されていたとしても、である。

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