Scribble at 2023-01-06 08:52:44 Last modified: unmodified

ここに残すのは2011年頃に書いた単なる備忘録なので、ノートの部類になる。公開に値するかどうかも甚だ怪しいものだが、ひとまず形跡を残す意味があると判断した。

さて、修士課程での研究を通じて、僕は「因果関係にかんする反実在論」を支持するようになった。マリオ・ブンゲが『因果性』で与えている区別に従えば、因果関係にかんする反実在論では、因果関係を認識論的カテゴリーとして理解する。しかも、その認識論的カテゴリーは、推論や思考、あるいは広く言って認知プロセスを支配する具体的なプロセス(粗い表現を使えば、何らかの「実体」)ではない。

しかし、この論法を再帰的に押し進めると、我々は外界にかんして議論しているのか、それとも外界を認識するカテゴリーについて議論しているのか、そうしたカテゴリーによって認識された限りでの外界について議論しているのか、あるいは外界について認識するためのカテゴリーをどう認識しているのかについて議論しているのか、分からなくなるのではないか。

この疑問は、高橋里美をはじめとする先達の時代から日本でも議論されてきた「認識論と存在論のどちらを根本とするか」という問いに集約される。そして、この問いは僕が哲学を学びはじめた時から幾度となく現れては、問いとしての難しさを示すだけに留まり、果たしてこれが問いとして正常なものなのか、そして哲学において真面目に問うべき問いであれば、その答えの道筋はどこにあるのかが、全く分からない問いであり続けてきた。

では、まずこの問いが真面目に探求すべきものであるかどうかを少しずつ検討してみよう。「認識論」あるいは「存在論」という用語を持ち出すと、哲学史をスタート地点から現在地点まで走り抜けなければならなくなるため、差し当たっては代用の問いとして次のように表現してみる。まず、「何かを正しく認識するには、どうすればよいのか」。これは認識論に属する問いと言ってよい。だが、そもそも「認識」が規範的な意味を最初から含んでいるならば、「正しい認識」という表現はただの重複である。他方、認識とは「正しく」為されるべき何事なのかどうかは、あらかじめ答えがはっきりしているわけでもない。すると、もし後者の点について、正しい認識だけでなく他の認識のありようがあるならば、それが何らかの意味における achievement である限り、「正しい認識」という表現はただの重複ではなくなる。例えば「正確な認識」や「適切な認識」といった、他の言葉遣いを正当に許すべき幾つかの様態があると言えるはずである。だが認識にそのような異なる様態が認められなければ、認識とはまさに「認識すること」それ自体で何らかの排他的かつ独立した価値をもつだろう。当然、「間違った認識」とか「不当な認識」もありえる。

次に、「正しく認識する場合に、そもそも何について考えたり判断しているのか」。これは認識の対象について問う仕方でもあるが、ここでは認識の枠内で措定された何かを言い表しているのではなく、存在論が語るように、「それをきっかけとして、あるいは目指して、われわれが認識しようとするところのもの」である。既に最初から注釈しなければならなかったという事実が示したように、問いとして立てることが難しいのは、明らかに存在論の問いである。それは、問いを立てるということが、認識するわれわれの側の作為だからであろう。われわれは存在論の問いを立てているまさにその時も、認識する主体であり続ける。したがって、バークリーの見解や水槽に入った脳を持ち出すまでもなく、われわれは認識論が描こうとする枠組みを越えて(それが正しく説明された枠組みであるかどうかにかかわらず)、存在論が描こうとする枠組みを語ることは不可能であるように見える。

何について認識しようとするのかが分からなくては、或る認識の正しさを「何について正しい」と判断すべきなのかが分からない。この疑問に認識論(を優位と考える立場)から答えようとすれば、恐らく、認識論には自立した判断基準があると言うほかはないだろう。つまり、「これこれについて正しければ、正しい認識である」と言える基準が、認識論の中で、かつ認識論の中でのみ正当に立てうると考える他はないと思う。他方、何が認識の正しい基準であるかが分からなければ、存在や存在者について見当外れの見込みを立てて接近しようとしているかもしれないではないか。この疑問に存在論(を優位と考える立場)から答えようとすれば、やはり、存在論には認識論の学派や正否に関わらず、目当てのなにごとかを言い当てて見据えられるだけの根拠があると言わざるをえないだろう。すると、たとえ誤たれる認識にも、真正の対象があるというわけなのだろうか。

これらの問いは、どちらの側に立つものであれ、果たして真面目に探求すべき真の問いなのであろうか。認識や存在という言葉の意味合いから導かれた、単なる概念の混乱、あるいは言葉遣いの混乱を表しているだけではないのか。あるいは、混乱でないとしても、それらはもっとすすんだ勉強を応用すれば綺麗に整理できてしまうような、プロパーであれば誰でも解いたことがある、既知の演習問題のようなものではないのか。

歴史が示唆するところによれば、恐らくこれらの問いは真面目に取り扱うべき問いではあったが、しかし或る前提を伴う視野においてのみ、意味を為していたのだと言いうる。それは、認識論と存在論の双方が共有している前提であり、簡潔に言えば「二項対立」や「実在論」である。前者によれば、認識論も存在論も、主体が客体に対峙しているという図式の中で描かれ、我々が立てたそれぞれの問いは、主体が正しく客体を認識することが優先されるべきか、あるいは主体を客体に正しく向けることが優先されるべきかという問いだったと示される。更に、後者によれば、それらの問いはどちらにせよ主体の向かう先としての客体が、あらかじめ実在し、認識論と存在論のどちらを優先するにせよ、それらが首尾よく成就されたときの achievement として最初から設定されているという。

そうした二項対立や実在論を指摘するのは、実はたやすい。それはまさに、異様な装丁で本を飾った80年代以降の通俗的な哲学本の無能な解説者どもでも、判子で押したようにイラストを交えて解説できたことなのである。しかし問題は、もしここで取り上げている問いのすべてに、重大な前提が正当な根拠もなく押し当てられているならば、その前提の正否はどうやって分かるのか、もし正しくなければ他にどのような前提があるのか、そして更に、そもそも何か正当な根拠を据えられるものなのか、据えられるとすれば共通のものなのか個々に違うのかどうか、あるいは、そもそもそのような根拠があるとしても時代や文化を通じて普遍的なものなのかどうか、ということである。

分析哲学の教科書的なレベルで言えば、クワイン以降の我々は、既にこのような問いを探求する必要はない。なぜなら、存在論とはわれわれの認識の成立に先立って「存在様態」として語りうる何かを探求するものではなく、端的に言えば「何があるのか」という問いに対して、われわれが変項の値として許容する集合(またはそれを含む構造としての、幾つかのそれぞれに同型なモデル)を科学と共に特定する作業だからである。そして認識論も、客体に迫るためのア・プリオリで正しい方法を探求するものではなく、ありていに言えば認知科学の研究と、その基礎にかんする哲学者の概念分析からなるアマルガムである。そこでは、「何があるのか」について探求している哲学者や科学者の認識について問うことも、再び科学と哲学の混在した知識の網目によって扱われる。そして、認知科学やその哲学においては「何について認知するのか」という問題は、再び科学と哲学の混在した知識の網目によって扱われる。これは、知識社会学としては近代以降のジャーナル・アカデミズムや制度化された科学研究あるいはもっと広く言って分業という現実にうまく合っているし、他人を信頼するという(或る意味では通俗的で民主的な)プロパガンダともマッチしていて、お行儀のよい学問のイメージを提供する。まさに、アメリカの学術研究を下敷きとした、「ホーリズム」というよりは「知識のグローバリズム」と呼ぶにふさわしいフレームワークであろう。

しかし、これは簡単に言えばわれわれが問うべき課題の「文化的破壊」ではないのか。科学哲学を専攻するわれわれは、素養として連言標準形やジェネリック拡大といった概念を習得し、それらを概念分析の強力なツールとして使い、なるほど実際に成果を上げてもいる。しかし、それは哲学者としての科学哲学研究者が、クワインからこのかた存在論について真面目に問う機会を(教育のプロセスにおいても)スキップし、分業だとか他人への信頼と言えば聞こえはよいが、つまるところ哲学的な素養の欠如を効率の名において正当化したり、困難な問いを無視するための言い訳としているようにも思える。存在論は素粒子物理学者や宇宙物理学者に、そして認識論は脳科学者や認知科学者に丸投げというわけである。今世紀に入って、ようやく「形而上学の復権」が議論されるようになってきたが、それでもまだ、カテゴリー論(圏論のことではない)であるとか、"why there is something rather than nothing?" という問いは、何らかの宗教的なバックグラウンドを持っている研究者に任されている(あるいは彼らが扱うべき問いとして放逐されている)ように見える。

議論が散ってきたので、これくらいにしておこう。

Epistemology would be explained as a study of valid and true criteria of recognition to approach the fact of matter or substances or the world itself, and ontology as a study of valid and true conditions of the fact of matter or substance. At the time of my novice age, it appeared to me that the relation of epistemology and ontology looked like a great vicious circulation, because we should, on the one hand, know appropriate methods and criteria to recognize things in advance of knowing the matter of fact, and on the other hand, we should truly know the matter of fact in advance of knowing methods and criteria to know anything. So it will follow that we have to build true epistemology for starting a study of ontology but we have to build true ontology for starting a study of epistemology. Is it a true circulation? Do we have to argue whether we should start from epistemology first or do from ontology first?

It is not a true circulation, I think. We can suppose a situation in which we study epistemology independently from ontology by assuming our own common sense and theoretical background about things itself or real things, and we can also suppose a situation in which we study ontology independently from epistemology by assuming our own common sense and theoretical background about rules or methods to know and think. And then we will reflect our assumption with results from epistemology or cognitive sciece to update and correct our study in ontology, or we will do the same procedure with results from ontology or sciences to update and correct our study in epistemology. This is well known as theories of naturalized epistemology and ontological commitment. These are commitments to an epistemological position and to an ontological position as projects, and we can update and correct them by each other and moreover we can replace which of study with another position independently from each other

If it is a true circulation, we can never step foward until we build up the true and only ontology or epistemology. That's a logical paranoid philosophy. We must start to study from insufficient but actual point, our own point of view. And almost all philosophers and (good) students know they have to dive into philosophical investigations with own, maybe temporal or tentative methods and limited knowledges and also know a significance of why we should ever study and learn. So, a question "should we start from ontology at first, or epistemology?" is a bad and hazardous one. And we would have better to avoid a statement like that: we should put an advantage for ontology than epistemology, vice versa.

But why? Why we could succeed these steps not as being a big tautology or oxymoron? Perhaps it is not a question of philosophy but a question of personal or social history. And we do not know about the validity of our way for the reason of it will also be a commitment. We can not assure the convergence to truth or things itself with our method even it is nearly a scientific one. Only we can believe, practice, inform our assumption, method, and result for people in a manner of straightfoward expressions on literature (therefore I believe analytic tradition and style of philosophy rather than other). An idea of absolutely true foundation is an illusion of philosophers who think, plan, or do epistemology or ontology on the skyhooked stage.

「あらゆる人が知識に価値があると同意しても、同意を得られるのはたいがいそこまでである。哲学者たちは、知識とは何であるかについて同意していないし、どうやって知識を得るかについても、更には獲得された知識なるものが何かあるのかどうかについてすら一致していない。そこで、『知識とは何か』という問いは、この章や本書の全体にわたって主たるテーマとなるだろう。では、どうしてこの問いでもって知識の理論に迫ろうとするのか。それは、認識論あるいは知識の理論と、形而上学あるいは実在の理論とは、哲学的な探究の役割としてどちらが重要なのかという地位をめぐって、古来から争ってきたためである。或るときは認識論が勝利し、別の或るときは形而上学が勝利した。そして、どちらが勝利したのかは、それぞれの哲学者が試しに何を想定したり真剣に何を仮定したかに依存していたのだ。」

「認識論者は、われわれは何を知るのかと問いかけ、形而上学者は、本当にあるのは何かと問う。そして、或る哲学者たちは実在の本質について説明することから始めて、その後に、われわれが実在をどうやって知るのかという説明のために知識の理論を付け足すわけである。たとえばプラトンは、三角形デアルコトや正義といった抽象的な存在者や形相が実在しており、それ以外の全ては単なる見せかけにすぎないという形而上学的な結論に到達した。また彼は、実在はわれわれが知りうるものだと主張し、その実在をどうすれば知ることができるかという探求に進んだ。他方でアリストテレスは、個々の彫像や動物といった実体は実在するものであると主張し、われわれがそれら実体の知識、とりわけ一般的な知識をどうやって得るかという探求に進んだのであった。プラトンとアリストテレスは知識の対象をそれぞれ異なるやり方で理解していたので、知識にかんする彼らの理論がひどく違っていても驚くには当たらない。彼らが共有していた、形而上学から始めるという探求の仕方を、ここでは形而上学的認識論と呼べるだろう。そして形而上学的認識論には、実在をわれわれの知るべきものとして不注意に前提してしまい、どうやってそれを知るのかについてしか注意を向けないという問題がある。」

「他の哲学者、最もよく目立つのはデカルトだが、彼らはそうした形而上学的な仕方から立場を取り返して、実在についてわれわれが最初に何を知り得るのか決めていなければならないと主張し、われわれが何を知り得るか決まっていない限り、実在が何であるかということについては疑い続けるべきだと述べた。これを、ここでは懐疑的認識論と呼べるだろう。だが、この仕方にも問題がある。ひとたび懐疑的認識論の一味に加わると、そこから足を洗うのはかなり難しい。デカルトは、可能な限り全てを疑いながら何を知り得るのかと求めてゆく中で、強力な悪魔がわれわれを騙して疑わせているのではないかと想像までしていた。そのような懐疑を理性に訴えつつどこかで止められるのかどうかは自明ではない。何を知り得て何を知り得ないか分かる筈だと期待して懐疑を始めることは問題なかろうが、もし最初から全てについて無知だと言い始めたら、何を知ろうとそこから疑いを取り除くことはできないだろう。それに、われわれが無知であると知ること、そしてこれもまた知識であるから、それに疑いの目をかけられた場合はどうやって正当性を取り返せばよいのだろうか。」

「そうすると、われわれは形而上学を優先して実在にかんする知識を不用意に仮定してしまうことと、われわれが知識をもつという仮定を拒否して懐疑主義へと引きずり込まれてしまうことのあいだで、板挟みになってしまったのだろうか。ここでわれわれは、懐疑的でもなければ形而上学的でもない別の認識論を採る。それは、形而上学や認識論に優位性を与えず、それぞれがもつ形而上学的あるいは認識論的な前提の体系的かつ批判的な説明を与えようとするものであり、この仕方を批判的認識論と呼ぶ。この仕方では、何が実在して何が知り得るのかという点について、一般常識や科学的な前提から出発する。それらはわれわれの持つデータから構成される幾つかの信念であり、それらは一般常識と科学的な前提が衝突している場合は互いに衝突する信念であるかもしれない。批判的認識論が基礎の一部になっている哲学的探究の目的は、そうしたデータを説明することである。だが説明とは言っても、それは批判的なものである。われわれは或る時はデータを説明し、他の或る時はデータを除外する。たいていの場合において、批判的認識論者は、われわれがどのように事物をわれわれが実際にそう考えているように知るのかということを説明しながら、知識の理論を構築する。しかし数少ない場合において、その理論は、われわれが実際に事物をそのようには考えてはいないと知るときに、どうしてそう考えるのかを説明するだろう。だが、われわれが知っているのは何で、知っていないのは何かを説明するためには、何が知識であるのかという問いに予め答えなくてはならない。事実、形而上学的な独断主義者や認識論的な懐疑主義者の双方が述べることをどちらも見定めるためには、そうするべきなのである。そして、われわれがいままさに始めようとしているのは、それなのである。」(Keith Lehrer, Theory of Knowledge (Routledge, 1990)

キース・レーラーの著書から抜き出してみたが、ここにも認識論と存在論(ハイデガーを読んでいる一人として同一視することに抵抗はあるが、分析哲学の業界内ではひとまず「形而上学」と言い替えてもよいとされる)の優位性にかんする論点が取り上げられている。そして、認識論と存在論について指摘できる「循環」を回避するためのアイディアとして、他のアプローチが出てきたのであった。これまでの議論で言及したように、その一つは、自然主義あるいは昨今の言い方では experimental philosophy である。キース・レーラーが提案している critical epistemology も、自然主義と整合するのだから、同じ部類に含めてもよいだろう。

「自然主義」や「実験にもとづく哲学」というアプローチはメタレベルの議論であり、言わば「理論」として語られているレベルの話を支えるところに着眼している。私見では、著作で書かれたものやそれが意味する事柄を哲学「の理論」と見做して、それを支える背景知識や推論(自覚的に体系立っている場合もあれば、そうでない着想の集合という場合もあろう)の総体を「哲学」と言いうるならば(実際、「ハイデガーの哲学」とか「出口康夫の哲学」と言う場合は、著作に書かれたことの総和の話をしているわけではないはずである。そして、このレベルの対比は世俗的な場面で「盛田昭夫の経営哲学」などと言われる場合にも当てはまっている)、更に個人的な経験に根ざしている考え方の傾向や偏見は「思想」と言ってよいかもしれない。この区別を仮定すると、認識論を展開するにあたって科学的知識や folk psychology を前提するというアプローチは「哲学」のレベルにあって、これを「理論」として学術雑誌やカンファレンスの発表で扱うのは、哲学のレベルにある着想やイズムを理論のステージに引っ張り出して議論の対象にすることだと言える。

この対比を使うと、認識論と存在論の循環を回避するためのアイデアとして、他にも幾つかの「メタレベル」にある哲学的見解があると分かる。その一つは、もちろん言語分析的なアプローチである。

実在についてこれこれであると認識することは、実在にかんする存在論という視点での哲学を反映するだけでなく、それは同時にわれわれの実在にかんする認識論という視点での哲学も反映している筈である。「実在―について―認識する」という状態は、実際に実在について考えている場合には不可分であって、循環も何も無い。レーラーが指摘したように、存在するものの存在様態や存在そのもの「について考える」過程だけを別種の認識あるいは認知として特権化する正当な根拠はない。どのような思考においても、それが認識である限りは認識論の介入を受け入れなくてはならず、実在の側に措定される概念を厳密に区別して、或る種の純化を続けていっても、それがわれわれの認識によってそう区別されたり厳密化されたのだという事実を否定することはできず、したがって存在論を認識論から理論として独立させることはできても、「存在論という特別な過程による理論化」として独立させることはできない。それはちょうど、自己同一性を物理的にではなく論理的に否定することにも匹敵するだろう。

しかし他方、どのような認識であろうと、その対象や内容がある限り(そして私自身が水槽の中の脳として今も私自身を騙し続けているのでない限り)、頭の中の整合性だけで話が終わるわけでもない。そして、認識論という理論を打ち立てるためにたどる哲学的探究という道筋も認識という過程を要するのであるから(あるいはその過程しか要求しないし、その過程によってしか打ち立てられ得ないのであるから)、認識論というアプローチだけで自己完結するものでないのは明らかだろう。

こうした状況を、存在論あるいは認識論「の理論(の意味)」として措定することは、循環があろうと不可分の過程であろうと、いったんそれぞれの言明として扱うことで客体化される。もちろんここには、存在論や認識論という哲学をそれぞれの言明のクラスが何らかの仕方で反映しており、それらの論理的な構造や意味を分析することが有効であるという別の難しい前提がある。なお、このアプローチは冒頭で述べた自然主義と排他的な関係にあるわけではない。

認識論と存在論(形而上学)のかかわりを解く概念として、まだ触れていなかったのが「真理」であった。端的に言って、我々の認識あるいはそれを反映する言語と(その逆もまたしかり)、事実や事柄の本性・真相とのむすびつきを、対応説であれ因果説であれ構成主義であれ、真理の概念に照らして考えてみることは有益だろう。もし事の真相 (fact of the matter) に対するわれわれのアプローチと成果が、事の本質に照らして (as the matter of fact) 正しいとすれば、単なる英語という言葉のあやを超えて、われわれは何事かを真理として語っていることになるのではないか。もちろんここにも、何事かを真であると述べたり真に認識する際の基準として、明証であるとか直観的に正しいとか論理的概念が何を意味しているのかを問うてもよい。「実在を認識する」という構図を仮定して、そこに指摘できる基礎付けなり理由付けなり正当化の堂々巡りを抜け出るための方策として意味や真理の探究に替えても、それらが何の意味であり、何の真理であるかが不問に付されるわけではないからである。

デイヴィッド・パピノウの論文に次のような一節がある。

「また、この論文では一つの教訓を掲げる。形而上学と方法論を混同するのは危険なのだ。もしあなたが、原因をどうやって見つけるのかという方法論的な問いに関心をもっているなら、この論文を読んで還元主義にかんする私の擁護を知ったとしても、あなたは自らの考えを変えたりはしないだろう。なぜなら、この論文は形而上学の話題だけを扱っており、方法論上の結論を全く出していないからである。要するに、あなたが方法論的な話題だけに関心をもっているなら、ここで読むのをやめた方が身のためである。私がここで述べる還元主義は、還元主義に取って代わろうとする見解に対して、方法論という点では何の利点も示していない。」

「他方、もしあなたが宇宙を支える構造について関心をもっているなら―そしてとりわけ、基本的な法則が時間において非対称であるような世界において、どのように因果の向きが成り立ちうるのかということに関心をもつなら―、あなたはこの論文を読むべきかもしれない。私が支持している理論は、まずここで請け合っておくが、どんな広告手法が商品の売上を高めるか (causes improved sales) ということを知りたがっているマーケターには新しく教えるものが何もない。だが、私の理論が時間の向きを説明するかぎり、私は自分の理論でどうにかやっていけるのである。」(David Papineau, "Metaphysics over Methodology -- or, Why Infidelity Provides No Grounds to Divorce Causes from Probabilities," in Stochastic Causality, Maria Carla Galavotti, Patrick Suppes, and Domenico Costantini (eds.), CSLI Publications, 2001, p.15f.)

ここでは「形而上学」と「方法論」によって対比しているが、これまで見てきたように、同じことは「存在論と認識論を混同するのは危険なのだ」とも表現できる。この世界(他の可能世界を含んでいてもよいだろうが)がどのようにしてあるのかを探求することと、われわれがそれをどうやって知るのかということを混同してはならない。だが、混同せずにうまく区別できたとしても、寧ろそれゆえに両者は概念としてだけでなく実際にも循環しているようにみえてしまう。われわれが存在論のカテゴリーとして因果関係を考えているとき、そこにはわれわれ自身の思惟がはたらいているので、われわれ自身の思考が用いている認識論的カテゴリーに因果関係が含まれているとすれば、われわれが事象や出来事の本質として因果関係を認識するとき、それは単にわれわれ自身の認識論的カテゴリーを投射しているだけにすぎないのではないかと反論しうる。そして、その投射が事の本質に対応していると言いうる根拠はどこにあるのかと問いうるし、仮にその投射が事の本質に対応しているということが真であったとしても、それは物事の本質に因果関係が「ある」ということが明らかになったというよりも、寧ろわれわれの認識が事の本質と「うまく一致する」ということが明らかになっただけではないのかとも問えるかもしれない。もちろん、それが偶然の一致でもない限り、どうしてわれわれの認識が事の本質(だと措定されている何か)をうまく一致して説明するのかという理由を求めるならば、そこには(どのみちわれわれは対応という考え方を採用している限り、実在との対応によってしか実在について正しく認識しているかどうかを判定し得ないのだから)われわれの認識がまさに実在を説明しており、実在を正しく認識しているからだと答えるほかはないだろう。

定式化して言えば、存在論が辿り着こうとするところは実在の正しい認識であり、認識論が辿り着こうとするところは正しく認識された実在である。そして、前者は後者が可能であるための根拠にみえるし、後者は前者が可能であるための根拠にみえる。この一見すると循環したようにみえる(いや、循環して「いる」と言った方がよいのかもしれないが)結びつきを一貫した視点から個々に探求できるようにするため、前世紀の哲学者たちによって採用されたものが linguistic turn であると僕は理解している。だがしかし、実在や認識についてではなく、実在について語る言明や認識について語る言明をポパーの世界IIIにおける entity として取り扱うことは、新しい混乱をも呼びこんでしまう。因果関係の哲学においては、かつてマリオ・ブンゲが次のように述べたことがそれに当たるだろう。

"Let us now turn away from problems of language, since neither the gradual disappearance of the word 'cause' from science, nor the survival of both the concept and the word in orginary and in philosophical language, is a reliable sign of the evolution of the status of the causal principle." (Mario Bunge, Causality and Modern Science. 3rd revised edn., Dover, 1979, p.346.)

「いまやわれわれは,言語の問題から方向転換をしよう.なぜなら,科学から「原因」という語が徐々に消え去るということも,日常の言語や哲学の言語の中に「原因」という語と概念が共に生き残っているということも,因果原理の身分がどのように展開してゆくかについての,信頼するに足る兆候ではないのであるから.」(『因果性―因果原理の近代科学における位置―』(黒崎宏/訳, 岩波書店, 1972, p.356)

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