Scribble at 2023-01-09 08:58:58 Last modified: 2023-01-10 00:27:52

結果が自分自身の身体とか生活に関わるような作業なり知見について、素人が「彼の仕事は雑だ」とか「あいつは藪医者だ」とか言うのは妥当な範囲の批評だろう。でも、たかだか素人でも自分が学校で習ったとか住んでいる周辺地域で寺や城を見かけるていどのことで歴史学者や考古学者について意見を言うのは、はっきり言って傲慢というものである。僕のような、プロパーに将来を嘱望されていた考古学の(元)天才少年とか、あるいは哲学でも最低限は博士課程にまで進んで学術研究の訓練を受けた者でもない限り、素人の分際で意見するなんてことは夜郎自大という他にない。学問に民主主義はありえないのであって、無知無教養で学術研究の訓練や修練を経た経験もない人間には口を挟む資格がないのである。

よって、考古学でもしばしば原田大六氏などの大学に籍を置いていなかった人物の外形だけを真似て、学位ももっていない素人のジジイとかが大学の研究者をアマゾンのレビューなどで「あいつら」扱いで語っているような様子は、日本人いや学問に携わる者として恥を知ってもらいたいと言いたい。敢えて言うが、るいネットとか、古田学派とか、その辺のド田舎に幾らでもいる自称郷土史研究家とかに公の場で考古学や歴史を語る資格などないのだ。僕はアマチュアの成果も耳を傾けるに値すると思う点で森浩一先生の「町人学問」というアイデアに賛同するが、それは「成果」と言いうるものを正当に出せる有能な人間の仕事に限ってのことだ。素人や好事家の書いたものを、プロパーがなんでもかんでも尊重して目を通す時間をつくる必要があるなんて考えないし、そんなことを学術研究コミュニティが求められるような「民主主義」なんてものは学術研究の邪魔であって、生産性を落とすだけの徒労でしかない。学者は、はっきり言えば素人の言うことなど(殆ど)聞く必要はないのだ。

これまで何度か述べてきたように、教育、医療、道楽、地域行政、セックス、子育て、食事、自分のかかわる業界の仕事など、素人でも自分のセコい経験だけでいっぱしの学者ヅラした発言ができると錯覚しやすい話題とか分野というものがあって、歴史や考古学も不勉強な人間がイージーに「オレオレ権威」を持てると錯覚しやすい。日本史の授業などロクに聞いておらず、大半の事項を全く暗記していないような連中でも「歴史ファン」や「考古学マニア」や「歴女」あるいは「古墳おたく」を名乗って学者を愚弄するような発言を公の掲示版や EC サイトや書評サイトのコメントで書き殴っている。オンラインでも、そこに書かれている文章の大半は子供の殴り書きみたいなものであって、博物館で配られているパンフレットを1枚か2枚ほど眺めたていどの連中が学術研究者の業績を手軽に(つまり実証も論証もなく)押しのけては、愚劣なファンタジーを多くの人々に向けてバラ撒いている。そして、何か言われると二言目には「素人なので許してください」だの「言論の自由」だの、果ては「ロマン」だのと言い始めるわけである。

こんなものは、僕がつねづね言っている無能なプロパーが出版する俗書による「ゼロ加算」ですらない。それは潜在的に多くの人々に悪影響を及ぼすもの、つまり無能なプロパーが書く毒にも薬にもならない哲学本どころか、軽い読み物という体裁で市井に散布される毒なのであって、学術研究者だけでなく、われわれアマチュアも積極的に叩き潰すべきものだと思う。

「素人に発言権はないのか!」

ねーよ。学識も学位も持ってないやつに。そろそろ、学術研究者は不勉強な人間へむやみに下駄を履かせる「いい人」ぶったスタンスを止めた方がいいし、出鱈目な「民主主義」を学術研究に持ち込む文化人やマスコミ関係者や芸能人を安易に客員教授とかに迎えてガキの興味を引くといった、「チンドン屋」とか二流のマーケティングという発想を大学行政から追い出した方がいい。食い扶持は減るかもしれないが、錯覚している人間を大学へ安易に教員として迎えたり、錯覚している人間を大学から安易に卒業させてしまうと、大局的には学術研究なり学問、つまりは我々自身の社会や知識の進展もしくは発展を停滞させるだけである。目先の経営とかマーケティングという打ち上げ花火的な成果だけを欲しがって、長期的な衰退を招くような刹那的と言うべき視点で学術研究に携わることは、はっきり言って学問や知識に対する「背任」だと言わざるを得ない。学術研究に従事する者が通俗本を書いたり大学で教えるのは、無関係で意欲もない人間に哲学という馬草を無理やり咥えさせたり、不勉強な人間にイージーに学位を出して下駄を履かせるためではないのだ。

結局、多くの考古学プロパーが素人のやることを「ロマン」などと雑に許容してしまうのは、やはりどこかに考古学という学問が大規模な地域の情報を必要としていて、なおかつそれらが発掘の成果、いまではその大半が私有地の行政(緊急)発掘によるしかないという事情があるからなのだろう。他の落書きでも軽く指摘したが、考古学という学問は或る意味で文化財行政に、「寄生」と言うのが不満でも「依存」しているようなところがある。それらの行政発掘にかかる費用は、地域住民の理解がなければ予算として配賦されない。よって、多くの住民に理解してもらうためには、その地域の歴史を調査することに「意味がある」と思ってもらわなくてはいけない。その最も大きな脈絡として、歴史を知ることは大切だといった雑なフレーズに好意的な理解を得るための手練手管が、たとえば NHK の大河ドラマにかかわる通俗的な数々の番組であったりする。でも、歴史が重要であることを理解できるからといって、素人が学説を建てられるなんてことにはならないのであって、そこの短絡を許してしまうのが、ものを書いたり教えたりする度量が不足していて、出版・マスコミの人々を牽制しきれないプロパーの未熟なところなのであろう。

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