Scribble at 2023-01-01 09:16:58 Last modified: 2023-01-01 09:19:40

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母親が亡くなってから、大晦日は実家で父親と連れと三人で過ごす習慣がある。昨日も出向いて、夜は父親が好き勝手にチャネルを替えながら番組を眺めている様子に付き合って、主に懐メロの番組と紅白歌合戦とを交互に観ていた。すると、どちらの番組でも、たとえばドリフターズのセクハラとしか思えない歌詞の曲が堂々と流されていたり、紅白でも back number というバンドが女性を「おれのもの」扱いという歌詞の曲を歌っていたり、結局は歌ってる人間や曲調が古かろうと新しかろうと(もちろん一部の人々の)感性は大して変わってないんだなと思わせられた。

何度も書いている話だが、僕は上の画像で蔵書をご紹介できるていどには関心をもっているけれど、決して自分ではフェミニストであるという自覚はないし、必ずしも自称フェミニストに好意を持ったり賛同するわけでもない。恐らくだが、ジェンダーという基準で社会制度やものの考え方を何でもかんでも分類したり、是非を判断できるわけでもないという予感が、femine + ism というスタンスを選ぼうとする態度に、どこかでブレーキをかけるからだ。

性別にもとづく色々な傲慢やら差別は許されないし、不合理でしかない。そういう僕の結論や態度によって、表面的ないし結果的にはフェミニストと似たような人物には見えるのだろう。でも、それが貫徹しているかと言えば、そういうわけでもない。実際、大晦日も年越しそばを作っていたのは連れ合いだし、僕は実家の掃除くらいしかしていない。時間だけで言えば、僕が掃除した時間は1時間ていどだが、連れ合いは自宅で御節料理を作るときから色々な作業が始まっているため、ぜんぜん比較にならない工数を年末年始に使っている。まぁ、昔の女性とは違って、彼女はそれをやりながら台所にタブレットを置いてゲームしたりアニメを観てたりするわけだが。

ということなので、世の中の仕組みや人の暮らしにおいて女性に一方的で不当かつ過度な負担がかかるかどうかは、学識や読書あるいは公に何を論じているかの問題ではなく、やはり人が自分の生活で何をするかしないかの問題に行き着くわけである。僕から見れば "ism" として扱うには狭量としか言いようがないジェンダーに関わる話ですらこうなのだから、いわんや自分たちでは原則として普遍的な話題を議論していると(いまでこそ豪語する人はいないとしても)示唆する哲学においては、なおさら自分がなにをするかしないかの問題が重要なのであろう。よって、某氏のように僕から侮蔑されているにもかかわらず『嫌われる勇気』といった通俗本を売りさばいて、毒にも薬にもならぬ哲学的茶飲み話をあちらこちらで披露しているような人物は、或る意味では自分自身の生き方において「嫌われる勇気」を首尾一貫しているわけである。どちらかと言えば「愚弄される呑気」と言った方がいいのかもしれないが。

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