Scribble at 2022-12-30 11:25:02 Last modified: 2022-12-31 08:44:57

It is with great sadness that we announce the death of our friend and colleague, Penelope Mackie, following a period of illness. Penelope was born into an academic family. Her paternal grandfather Alexander was professor of education at the University of Sydney, and her father was the philosopher J.L. Mackie (whose philosophical papers she co-edited). She went to Somerville College, Oxford, in 1971, where she took the BPhil in Philosophy with a thesis, Identity and Continuity, in 1978, and later the DPhil in 1987, with a thesis, How Things Might Have Been: A Study in Essentialism. After her DPhil, Penelope moved to the US, first as a visiting lecturer at the University of Maryland (1986–1987) and then as Assistant Professor of philosophy at Virginia Commonwealth University (1987–1990). She then returned to Oxford, this time as a fellow of New College (1990–1994), before moving to Birmingham in 1994 and then to Nottingham in 2004, where she worked until her death.

Penelope Mackie (1953-2022)

How Things Might Have Been という著作があり、いわば親子に渡って似たようなテーマに携わってきた人物である。哲学は、とここで大上段に構えるような話でもないが、本質的にはプライベートな営為であるからして、北斗神拳のような「伝承者」などいないし、親子であっても同じ問題を共有するということは少ない。せいぜい、例えばチャーチランド夫妻の娘さんが彼らのテーマに近い認知科学の研究者になったりする事例があるていどだろう。もちろん、哲学に限らず大多数の分野では「親の七光り」なんてないわけで、仮に子供も哲学を志したとしても教員にまでなれるかどうかは分からない。実際、マッキーの場合は生存バイアスの一例かもしれず、本当のところ子供も哲学を志した事例は(大学にポストを得られなかったという失敗は出版物としても記録にも残らないから)隠れているだけで多いのかもしれないが、僕はそういう事実は少ないと思う。

その是非をどうこう言うのは無意味だとは思う。仮に、「北村流分析哲学」とか「科学哲学河本派」みたいなものがあったとして、それがいったい何なのかという気もする。親から子にテーマとかアプローチとかが継承されたからといって、何らかの意味で研究成果が進展したり向上する保証など何もない。それは他人が同じテーマに取り組むとしても同じことだが(そもそも彼らが「同じ」テーマに取り組んでいると言えるかどうかすら、本当のところは分からない)、少なくとも何事かを継承しているという歪んだ自意識をもたないだけマシではあろう。ただ、そういう場合でも自らが「科学哲学の人間」だとかいった、実際のところは意味不明な自意識が別の足かせになる可能性はある。よって、本当のところ僕も「哲学をやっている」とかいった、実はよく分からない自意識からは自由になりたいので、何事かを名前とか本のタイトルとかドメイン名などとして掲げるということ自体を差し控えたいような気はする。別に他人のためにやってるわけでなし、自分のやることに「タイトル」なんていらんだろう。

この落書きに、ブログ記事とは違ってタイトルを付けていないのも、そういう事情がある。「2022年12月30日 に初出の記事」なんてのは、プログラムが出力しているだけの文字列である。

そういや、自分で書いていて気づいたのだが、同じ日に複数の落書きを公開しても、それらは全て「2022年12月30日 に初出の記事」というレイブルが付いてしまう。これは不合理だ。無理にタイトルなんて付けようとするから、そういうバカげたことになるのだ。本来は時刻まで表示していたからユニークなタイトルだったのだが、時刻まで表示すると休憩時間に記事を書いたり、あるいは自動で掲載していても、平日の日中に公開したというだけで仕事をサボっていると思われては困るので、敢えて日付だけに変更したのだった(まぁ僕らは部長で裁量労働だから別に結果さえ出せば、平日の昼間に自分のサイトを更新していいようとどうでもいいのだが)。

それなら、公開した日時が分からないようにユニークな文字列をタイトルにするか、いままでこうして書いてきたスタンスを守って、そもそもタイトルを削除してしまうのが良いだろう。よし、これは来年の課題としておこう。他人の訃報から随分と手前勝手な話に逸れてしまったが、まぁよい。

[更新:2022-12-31] とはいえ、h1 要素がないというのもドキュメントとしてどうかと思うので、h1 要素をアホみたいにデカく表示せずに使うこととした。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook