Scribble at 2022-12-23 08:00:05 Last modified: 2022-12-23 08:14:30

通俗物書きたちは毎日のように哲学用語や哲学の論争あるいは哲学の議論だの主張を、ただひたすら短絡し要約することに精を出している。これは、ユーザであり消費者である読み手が食べやすいような、いわば知的な離乳食を与える行為に等しい。しかし、彼らが(本当に有能なら)やるべきことは、まじめに時間をかけて自ら考えて判断すべきことと、そうでないまやかしの議論とを区別することなのである。もちろん、その提案そのものが一つの方針なり仮定に基づく主張であるため、読み手は彼らが哲学の概念や議論を整理する仕方そのものを多く学んで比較し、それこそ誰の判断が信用に足るのかを考えて決めなくてはならない。

これは、つまるところ誰が何を書いているにせよ、最後の最後は読んでいる者に責任があるということなので、逆に言えば世の書店に続々と並べられてゆく通俗的な哲学に関する書物を手に取っている時点で、あなたがたユーザは自ら自分を貶めているわけである。自分にはスカートの短い女子高生が表紙の哲学書が相応しいとか、「超訳」だ「一冊で分かる」だという手軽で分かりやすい読み物を求めているとか、いくら言い訳を並べようと、そういうものに自分が適していると考えた時点で、実はその人に哲学するだけの理由や動機などないということが分かるのだ。実際、哲学科にもいるよ。あんたそもそも哲学する必要なんてないだろうって人が。

なので、当サイトでご紹介している僕自身の区別に納得するにせよ、あるいは疑問や反感を持つにせよ、それがどうしてなのかとか、他にどういう区別があって自分は他の区別の何を支持するのが正しいと考えるのかとか、それとも区別することに何か妥当性はあるのかとか、そういうことを考えた方がいい。たとえば、既に過去の落書きで述べたかもしれないが、僕はチューリング・テストというのは下らないと思っている一人だ。なぜなら、知性があるかどうかは脳の特定の機能とか部位の話ではなく、それこそ知性があると思っているヒトが判断したり概念を組み立てることだからである。よって、ここから連鎖が始まり、もちろん意識のハード・プロブレムも下らないし、クオリアも哲学や認知科学の概念になりえないと思う。誰かが何らかの仕組みを考案して実装し、そこへ意識を「アップロード」なり「移動」したと言われても、「それ」の内部で起きる事象が、こうしてタイプしている河本孝之の自己意識である保証などない。そして、それは自己意識をもつとされている「僕」にだって是非を判断できる保証など実はないのだ。

この話は、一定の仮定をもつ僕にとっては簡単なことであり、わざわざ哲学の本を書いたり、通俗本の一部として優しく、あるいは分かりやすく解説する必要などないと考える。われわれが何かに知性だの意識があると思えば十分であり、「それ」に何が欠けていようとどうでもいいのだ。アニメで描かれるキャラクターや映画に登場するロボットが動いたり会話する様子を眺めて、そこに誰か現実の知人や家族と自分が会話するのと変わらない印象を認めたら、それでおしまいである。そもそも、「知人」とか「家族」と言っている人間だって、知性があるのかどうか疑わしい受け答えをするものだし、Twitter のタイムラインに投じられているツイートの多くがリベラル発言やネトウヨ発言を繰り返す ChatGPT の出力だとしても、気づかなければそれでおしまいであろう。そこに哲学の問題などないのだ。

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