Scribble at 2022-11-19 09:09:19 Last modified: 2022-11-27 00:17:19

このところ10年ほどの間に、「なぜ古典を読むべきなのか」という著作が何冊か出ているようだ。書店でも、幾つかの(とりわけ人文系の)棚でお目にかかる。半分はアウトリーチの類を目的にしているらしいが、あと半分は弁解や言い訳のような体裁で、いかにも実学主義の経営者や鼻っ柱の強い東大の暗記秀才たちに何らかの正当化を図ろうというチラシのようだ。

しかし、そのような弁解を欠いたまま、第一に国費からの補助金がなくなって研究や調査に支障をきたすとしても、もともと哲学や考古学や歴史学や文学は国の支援などなくても進展してきた学問であり学術であり知見である。補助金なくしては Elsevier や Springer の雑誌を購読できないからとて、それがいったい何なのか。それらを購読したらハーヴァードの教授になったりノベール賞を受けたり Cambridge University Press から自著を出版してもらえるのか。

そして第二に、学生なかんずく保護者から学費を徴収できなくなって大学どころか大学制度が崩壊して、それがいったい本質的に言ってどうだというのか。必要ないとして自壊したり自滅してゆく人々は、もちろん「自己責任論」そのものによって放っておけばよい。しかるにもしかして必要かもしれなかった子孫の代や多くの無知な大衆にとって、それらの学問や成果をどこかで継承したり保持してゆくべきだろうか。どちらにせよ、実学大好きなリバタリアンだろうと、学問や知識に興味がない人々だろうと、彼らを説得しようとする態度こそ、或る種のパターナリズムや傲慢ではなかろうか。いまわれわれが生きている時代において、その必要がないと社会が判断したのであれば、正直なところ、僕ら哲学者に後世の人々が被るかもしれない機会損失を心配する責任があろうか。とてもそうは思えない。哲学とは、結局のところ僕ら自身がどう考えたり生きるかの問題でしかないからだ。人類、なかんずく日本人なんてどうなろうと、哲学者としての僕は知ったことではない。これは「不道徳」な態度だろうか。僕は、そういう意味では倫理とか道徳なんてヤクザが落とし前をつける話と殆ど同じ問題でしかなく、逆らえばペナルティがあるからこそルールを守っているにすぎないと思う。

また、大したレベルでもないとは思うが、一定の年数を読書や学術研究に費やした者として言えることがあるなら、研鑽を積むことによって逆に古典しか読むべきものがないと分かるようになるということなのだ。何年も前にカナダで生活する論理学者がブログで書いていたことだが、彼に比べたら僕は実績も才能も「底辺」と言ってよいものだと思うが(日ごろから有能だ何だと書いてはいるが、もちろん僕よりも遥かに有能な人々はたくさんいる。僕が言っているのは、書店でしょーもない新刊書の数々で名前を見かける人々の中には、哲学者として僕よりも有能だと思える者は殆どいないということだけだ)、似たような実感はある。ここ20年くらいを振り返ると、因果関係の哲学なんて殆ど停滞している印象しかない。いまでこそ統計学などの脈絡で「因果」というキーワードを使った多くの通俗的な本が出回っているが、DAG なんて、教養レベルの数学を学んだ人間、あるいは僕らのような IT エンジニアから見れば、子供が初等的な綾取りで遊んでいるのと大差ない。

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