Scribble at 2022-11-07 10:59:21 Last modified: 2022-11-12 08:32:18
プロパーはもとより先輩や後輩との会話でも耳にしたことは一度もないのだが、この世の中には哲学の用語事典とか思想事典なる出版物が出回っているらしい・・・というのは冗談で、知らないふりをするのはよくない。実は学部生の頃に古本屋で、平凡社から出ていた『哲学事典』(1971)を買っていたのだった。確か手にした頃は何度か眺めた覚えがあるけれど、実家に死蔵して30年以上が経過している。もちろん、プロパーであればご承知のとおり、そういうものを1冊たりとも所有したり目にしていなくても哲学はできるし、それどころか大学院の博士課程にすら入学できる。僕がその、最低と言ってよい水準の実例だ。
最低ラインのドクターだったろうという自覚がある僕ができていることを、東大や京大のドクターや、ましてプロパーの研究者ができないなどということはありえないし、決して許されない。もし該当する人物がいたら、大学教員なら翌日にでも辞表を出してパソナにでも登録し、クズみたいな営業代理店にでも再就職することをお勧めするね。なぜなら、他人にものを教えるべき資格のない無能だからだ。僕よりも下のレベルの人間が大学で他人にものを教えるなど、当サイトで紹介しているクズみたいな本を量産する文化的なゴロツキどもに匹敵するような、文明や知識の進展に対するゼロ加算どころか減算でしかあるまい。田舎の補習塾の講師にも劣るような価値しかないという話である。
さて本題である哲学や思想の事典に話を戻そう。
ちなみに、昔から多くの人々が「事典」と「辞典」を区別しないことにも困惑させられてきたので、簡単に紹介しておくと、「辞典」というのは「wff = well-formed formula」とか「iff = if and only if」とか「物自体(ものじたい)」などと、略記を解いたり、用語の読み方を表記したりする書物のことだ。これに対して「事典」は取り上げる分野の用語について解説することが目的であり、逆に言えば一定の文章で解説しないといけない事柄を集めた書物だとも言える。試しに、国語辞典と同じく supervenience という言葉に「随伴、付随」と語義(というか訳語)を書いたところで、それだけでは「事典」にはなっていない。もちろん、僕らが哲学や思想で手にするのは「事典」である。そして、事典に "EPR" が Einstein, Podolsky, Rosen という三者の頭文字だという辞典のような説明が含まれていることが多い。逆に辞典のような体裁の本に、事典と言うべき文章による解説がコラムとして追加されているような体裁の書籍は、殆どあるまい。高校の倫理に対応して発売されている学習用の用語集ですら、そのような意味での辞書ではない筈だ。
さて、こうした事典に掲載される哲学や思想の用語というものは、特定の人物が特定の著書で特定の脈絡で使っているという前提において理解することが最初の手続きである。もちろん初出の表現は、いわんやその人物の造語であればなおさら、たいていの人にとっては正確な意味が分からない。そして、それについて解説してくれる用語事典もなければ当人に意味を聞くわけにもいかないとあっては、まさしく言語ゲームとして使われ方をフォロー・アップして意味を推定するしかあるまい。逆に多くの人が使う用語は事典など読まなくてもいいくらい、曖昧で常識的に理解できる(と思われている)ものが多い。たとえば「概念」なんて言葉は、僕らは大学の授業で習ったり哲学の事典を読んだからこそ使えているわけではないのだ。すると、個人が造語として使っている特殊な用語であれ、多くのプロパーが使っている用語であれ、どちらについても事典なんて必要ないじゃないかと思えるかもしれない。実際、僕も30年以上にわたって実家で死蔵しているし、博士論文を書くために必要だとも思っていなかった。では、こういう事典の類は全く不要だろうか。
イージーな「哲学用語事典」の類をせっせとビジネス書の出版社などから出している、何の業績があるのか不明なプロパーというのも、当サイトでは嘲笑の的にしてきたのは事実だが、かといって事典のような著作物に効用や適切な利用の仕方がまるでないかと言えば、そうでもない。僕が馬鹿にしているのは、無能な日本のプロパーという個人であって、事典という体裁の著作物ではないからだ。しかし、そこには事典の側に幾つかの条件があり、そして事典を使う側の僕らにも幾らかの心得なり配慮が求められよう。
或る分野の事典であれば、その要件の一つは可能な限り exhaustive でなくてはいけないということである。「いま知るべき哲学用語ベスト10」とか、そういうものは未熟な出版業界(とつるんだプロパー)の流行語を集めているだけであって、数ヵ月ほど Instagram で「バえる」だけの新商品のお菓子を並べているだけでしかない。みなさんが哲学を志すのではなく、業界のトレンド・ライターみたいなものになりたいなら、どうぞそういうものを集めて出版していただければよい。どのみち、哲学するべき人々の大半にとっては何の関係もないものであり、そういう人々は恐らく手にしないだろうから、本来は哲学するべき人々がクズみたいな通俗本に「汚染される」などと僕は心配しない(し、汚染されるような人間なら、結果論にはなるが哲学する必要なんてなかった人なのだ)。
こういう要件が必要である理由は、実は大学に「教養課程」が必要であるとか、膨大な分量の教科書とか、あるいは大量の蔵書をかかえる図書館が必要である理由と全く同じである。つまり、プロパーには入門者を圧倒する義務や責任があるのだ。おかしな言い方になるが、学問も、ビジネスやスポーツや軍事と同じく、素人に舐められたら終わりである。「やさしい哲学」は、赤ん坊のような知性とか、どのみち哲学なんて関心もないガキに紙屑みたいな入門書を売りつけるだけのマーケティングや「福祉」目的ならばら撒く経済的な意味もあるのだろうが、まともな大学教員、なかんずく哲学者のやるようなことではない。プロや教員が初心者に与える最初の試練であり、そして最大の恵みは、これから入門しようとする仕事や分野が途方もない水準とか奥行きをもっていると知らせることにある。とても20年や30年ほど訓練したり学んだていどでは終わらない、本質的には「終わり」などないのだという冷酷で正確で厳しい事実で圧倒することにある。これこそが学問を授ける教員が学生に教えるべき真実だとすら言えよう。そして、それを手軽に表すのが、それなりに圧倒的な分量の事典というわけである。そう評価するに値するだけの事典は少ないし、あるとしても高価な書籍が多いけれど(Springer や Elsevier から出てる事典やハンドブックの類は、それなりに気合を入れてバイトしなければ買えない)、いまで言えば SEP (Stanford Encyclopedia of Philosophy) を始めとするオンラインの事典が、個々の事項の分量としても続々と増えており、第二次大戦後の英米系の事項に偏っているとは言え、偏っていることを理解していれば有益なリソースとなっている。
よって、こうした事典を使う側にも、事典のような分量ですら一定の偏りがあったり、専門という局所的な話題だけしか扱えていないという事実を知っておくべきである。しかし、それを入門書で教えてくれることは稀だし、通俗本がそういうことを誠実に解説してくれるとは思えないので、大学の教員が学生に教えたり、あるいは僕らのようなアマチュアがオンラインでこうして書くことにも意味があろうと思う。