Scribble at 2022-10-27 07:54:54 Last modified: 2022-11-12 08:55:24

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Why the attempt to bury metaphysics failed

僕はこの IAI (Institute of Art and Ideas) が主催する HowTheLightGetsIn というイベントが大嫌いだ。いかにもイギリスの貴族趣味という感じで、お高いところから哲学だ、芸術だ、科学だとワイングラスを片手に偉そうなお喋りを繰り広げては、些末な一般民衆や労働者に Oxbridge や LSE の知性をひけらかすという、愚にもつかない金持ちの暇潰しだとしか思えない。ラッセルくらいの本物の貴族がやってた(投獄も意に介さない)活動ならいざ知らず、こんな連中がやってることは小平の英雄とか龍谷大のブ男とか、その手の二束三文な文化芸者どもが東アジアの辺境国家で繰り広げているパフォーマンスと、結局は性根のところで同じだと思う。こんなものにコミットしたところで、哲学的にはゼロを延々と紙に書いて足し算しているのと同じだ。

そして、僕がつねづね「分析哲学史」といったタイトルで語られる評論の中で、最も気に入らないタイプの典型が「論理的経験主義もまた違うタイプの形而上学だった」といった下らないマウンティングである。過去の雑誌をサーベイすらしないて、よくもこんな稚拙としか言いようがない評論を21世紀にも入って書けたものだと、逆にイギリスの知性とやらに感心してしまうわけだが、たとえば Philosophy of Science の1940年代あたりまでのバックナンバーを丁寧に読んでいけば、既にその当時から同じ批評が出ていることくらい、大学図書館に入って雑誌のバックナンバーを読めるなら学部生にでも突き止められる。

一例を出すなら、更に昔のチャールズ・ハートショーン(Charles Hartshorne)が1935年に書いた "Metaphysics for Positivists," (Philosophy of Science, Vol. 2, No.3 (July 1935), pp.287-303) に現れる、"all science must speak the same language, is sound metaphysics, even though it eschews metaphysics" (p.295) といった論評だけで十分だろう。つまり、当時どころかウィーン学団のメンバーが亡命する以前からも同じ批評が加えられていたにもかかわらず、どうやってアメリカでかように支配的とも言えるヘゲモニーを掌握したのかという点が(哲学的にはともかく、少なくとも知識社会学としては)重要なのであって、多くの人々が真面目に考えようとしてこなかったからといって、同じことを何度も繰り返して指摘したところで学術的には無益である。それこそ、それについて本当に関心があるなら、その重要な点を検討したうえで思想史としての解説をするべきである。

こうした議論をしている根拠は、僕が「哲学の教科書」について色々と書いてきた理由と同じである。上記のような、凡庸でつまんない批評の典型は教科書みたいなものであって、つまるところ当事者意識ゼロなのである。それこそ書店でみなさんが「哲学・思想」の棚で幾らでも手に取れる、哲学の歴史だの論争の紹介だの哲学用語集だのサバイバル・ツールとしての哲学だの生きる知恵だのという、愚にもつかないカタログみたいな本に書かれている、昆虫標本みたいな解説だとか、しょーもないイデオロギーを自覚してもいないお説教だとかは、実際のところ書いている人々に、哲学と呼ばれている何らかの営為に携わっているという当事者意識なんてまるでないのである。

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