Scribble at 2022-10-18 11:52:41 Last modified: 2022-10-23 07:52:46
Philosophy of Science のバックナンバーを眺めていると、レスリー・アルヴィン・ホワイトという人類学者が書いたと思われる "Science is sciencing" という論説を見つけた。これを本当に人類学者のレスリー・ホワイトが書いたものと仮定して話を続ける。
この人物は、しばしば「思弁的」だと評されるように、実証的な研究や調査よりも概念や数式を駆使した著作物で知られており、昨今も一時期だけ日本とか呼ばれている辺境国家にあって(「老害」なる言葉の流行とか、リバタリアン的な成金青年たちのプロモーションも手伝って)出版業界で持て囃された文化進化論やミームの議論に通じる観念を彼の著作にも読み取れるようだ。しかし、残念ながら彼の著作は、いまでは原書ですら入手が難しいため論旨を正確に理解することは困難であるし、そもそもその事実が彼の学者としての評価を物語っているとも言える。彼が、バカや無教養な人々のお腹にやさしいママの離乳食みたいな語り口でクズみたいな妄想を売りさばく手合いの一人なのかどうかは何とも言えないし、「舐め猫」ならぬ「なめ国」などと揶揄されつつ、低レベルの数学を駆使して宮台=大澤路線のこけおどし数式ロジックを展開したクズみたいな本と同類の紙屑をばらまいただけの人間なのかも不明だが、少なくとも彼の手によると思われる論文は手にしている以上、時間があれば目を通しておきたい。
もちろん、"science is sciencing" なるフレーズは、哲学の通俗本にもよくある "philosophy is philosophizing" とか、カントが言ったとされる「哲学は教えられない。哲学することを教えらえるだけだ」という、趣旨の分かるようで実は分からないフレーズにしても、昔からこの手の言い回しは頻繁に見かける。そして、恐らく当サイトへアクセスしている方々の多くは、僕もこういうスタンスに賛同する一人だと思われるかもしれない。なるほど、「哲学という固定された知識や体系など現実はもとより理想としてすらないし、いわんや『全体像』などというお化けは存在も実在もしない」などと言えば、学部レベルの人々には聞こえのいいものかもしれないし、昨今のクズみたいな出版社から続々と出てくる哲学の通俗本にでも書けば、多くの不勉強でものを考えようとする熱意も(実は動機も)ない哲学オタクや暇を弄ぶ読書家などには喜ばれるのかもしれない。そのていどのマーケティングであれば、僕も巨大広告代理店を株主とする企業の一員として事業や企画や制作業務の裏や表を眺めてきたのだし、いくらでもやれることだろう。
だが、僕は名詞とか動詞といった手持ちの言語的な(厳密な基準で「言語学的」であるかどうかは不明の)スキームで物事をカテゴライズしたり相違を認識するような人々に、簡単に与しようとは思っていない。名詞なら固定していて、動詞なら動いているといった対比は、それこそニューアカデミズムやポスト構造主義の読み物と曲解だけが流行した1980年代に、青山学院や慶応で哲学や文学を講じるサルみたいな連中でも口にしていた、"dynamic is better than static" なるバカ話と全く変わらないからだ。僕は、動く(動かされた)物事の方が、静的で固定した(固定された)物事よりも優れているという発想じたい、まず理解不能だと言いたい。そんな比較自体が、或る種のカテゴリー・ミステイクではないかとすら思う。なぜなら、それはつまりどちらかの状態に、それこそ固定された方が物事にとって理想的であり、幸せだと言っているも同然だからだ。そして、世界なり宇宙なり観念としては何でもいいが、そういう事柄を何か一つの概念で把握しようとすること自体に疑問を覚える。cognitive closure の支持者としては、ヒトというかあらゆる知性をもつ生物種に、そんな能力などありはしない。よって、sciencing というフレーズに賛同できるアイデアがあるとすれば、我々は科学の研究だろうと哲学の思惟であろうと自らの限界を自覚しつつ常に抗っているのであり、動名詞を使うことでそれを明示的に主張することが望ましいということなのだろう。言い換えると、われわれには dynamic なモデルであれ static な体系立った知識であれ、手持ちの道具なら何でも使う(anything goes)という方針しかないということでもあろう。