Scribble at 2022-08-21 12:35:28 Last modified: 2022-08-21 12:38:34
It is hopeless to expect that I will correct any of my mistakes at this stage of life. To allay my feelings of guilt, I will resort to a ruse. I will present them to you in the attractive literary form of the decalogue. The goofs, gaffes, misunderstandings, and prejudices I am about to list are not exactly hot off the press, and you may find them cloyingly familiar. Why, then, make a public spectacle of them? Well, I myself always find it gratifying to listen to opinions I agree with, and I surmise that you may feel likewise as you listen to my tirade.
自分が使ってる知識や技能を他人へ〈適切に〉説明したり解説できるとは限らない。これは、もちろんコミュニケーションの全般にわたって通じる話でもあるが、教員ともなれば職責や存在意義にかかわる話であるから(おそらく、僕らのような企業の役職者であっても職責にかかわる話だと思うが)、上記のような告白は自意識過剰な人間が多い大学では貴重な事例だと思う。
ここでも何度か書いているように、数学のテキストの大半は、もちろん高校までの受験参考書も含めて、〈分かっている人間が分かっていない人間に書いている〉という構図が、寧ろ書いている方の筆者、つまりは教員に全く理解されていない場合が多い。したがって、分からない生徒がいるという事実はなにほどか知っていても、授業を履修し終わった後も分からないままの学生が現実にたくさんいるという事実を、彼らは実際のところ全くトレースしたり調査していないので、彼らが「わかりやすい」という雑な目標を編集者と据えてテキストを書き始めても、その指標は実のところ何も存在しない。彼らの妄想だけである。よって、彼らは何度も繰り返して開成高校で圏論の論文を書くような高校生を「標準的な高校生」として想定し、ソルボンヌ大学に数学の博士論文を提出するレベルの学生を「数学が苦手な近所の大学生」として想定し、愚かしい対話篇の入門書とか、ばかげた教科書を書いては自分たちだけで啓蒙の高邁な思想を体現している人間だと思いあがっているわけである。
自分の後任や弟子にバカしか採用できない人間こそ、選りすぐりのバカというものである。東大の博士号をもっていようと、たとえノベール賞を受けて人類の知的進展に貢献しようと、そういう意味でのバカに教科書を書く資格はない。