Scribble at 2022-08-10 10:17:08 Last modified: unmodified

ここでは敢えて分析哲学について、ウクライナの子供の死体を映像で眺めながらワインを片手にドーナツの穴や歌舞伎や色盲博士やゾンビについて軽口をたたくスノッブや素人言語学者どもの暇潰しだと侮蔑しているが、もちろん(もちろん!)本意ではない。予言の自己成就という用語があるとおり、そういう著作物や哲学イベントの類をわざわざ探してしまうような愚行は避けたいと思っていて、しかるべき評価に値する素晴らしい成果は積極的にご紹介したいとは思っている。

でも、そんな愚行などするわけもなく、結局は大手の出版社から刊行される著作物の宣伝は自然と目立つので、Facebook とかでもラーメンがうまいのどうのと、またぞろ分析哲学のプロパーがくだらない本を書いてる事例に触れたりして、こういう記事を書かざるをえなくなるわけだよ。

かつて、もう30代以下の研究者は名前すら知らないと思うが、栗本慎一郎という人物がいて、メルロ=ポンティやら(カールとマイクル)ポランニー兄弟の業績などを熱心に紹介していた。そして、彼自身も現代思想の著述家を rating and ranking するような通俗本をせっせと書いていたものである。その中で、「学者はメジャーになることが大切だ」という持論を展開していたのを見たことがあった。結局はパブリシティがなければ自分の考えることを多くの人に伝えることはできないわけなので、学界でヘゲモニーを握り、マスコミでは使い勝手のよいステレオタイプを演じるアカデミズムのツールとしてふるまい、そして出版業界では売れる本を書き、大学では人気のある先生として奇抜な授業を実践するというわけである。おお、まるでサン*ルやヌス*ウムそのままではないか、という皮肉はともかく、このような数々の手練手管を使って、最後に自分が世に訴えたいことを堂々と言うのが思想家としてのうまい処世術ということらしい。

でも、そういう処世術を繰り広げた結果として当世に名を挙げた人って、大半が20年もすれば古本屋にすら出回らないような紙くずをばら撒いた人々か、あるいはテロリストだよね。電通の打ち上げ花火みたいなキャンペーンで物好きが買っただけの商品だとか、集中的な販促で大きな作品に出たというだけしか実績がない「大女優」と何が違うのって思う。はっきり言って、そんなことの方法とか正道なるものについて語れるほど、出版とかマスコミとか大学教育とか学術コミュニティのノウハウについて歴史が積みあがってるとは僕には思えない。学位を授与する制度を備えた教育機関としてモロッコのアル=カラウィーイーン大学が世界で初めて創設されたのが9世紀だから、まだ1,200年も経過していない。それだけあれば積みあがるものもあったのは確かだが(みなさんがサルみたいに使ってる iPhone もその成果の一つだろう)、しかしそれではぜんぜん足りないものもたくさんある。それは、哲学の歴史を学んだことがあれば(それ以外に何を学んだのやら、寧ろそれについて疑問はあるが)お分かりだろう。

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