Scribble at 2022-07-16 15:15:02 Last modified: 2022-07-17 13:03:00

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もちろんプロパーはご存じだし、学部生でも多くの人々は手にしたことがあると思うが(日本語で書いてるからといって、別に日本人だけの話なんてしてない)、Boston Studies in the Philosophy of Science というアンソロジーの叢書が Springer (Springer Nature) から出版されている。1960年代後半から始まっているというから、要するに僕が生まれた頃から50年以上も続いていて、現在は300巻を超えているというから、隔月くらいのペースで出ていることになる。各巻の編集者は異なるため、いわゆる叢書としての editorial board のメンバーに大きな負担はないと思うのだが、テーマの選択には一定の水準を保つための注意なり、あるいは場合によって政治的な配慮が必要となるのだろう。

さきほど BSPS の発行リストを第1巻から最新の第339巻あたりまで眺めていたのだが、ご承知の方もおられるとおり、このシリーズにはネルソン・グドマンの The Structure of Appearance (1977) も第53巻として収められている。翻訳されてもいい一冊だと思うのだけれど、東アジアの文化的僻地では、どうしても「世界制作」とか、そういった中二病的なフレーズを書名に躍らせる方が思想オタクや文学少女の受けがいいという思惑(日本の編集者の頭の中にマーケティングと安っぽい「啓蒙」という観念以外に何があろうか)があろうし、恐らくこの先も本書を訳出しようという出版社はないだろう。よって、本書の著作権が切れる時代に科学哲学や分析哲学(彼らにとっては大昔にそう呼ばれていた「トレンド」)に相当する関心がある学生や研究者や僕らのようなアマチュアの手によって自主的に訳出され公開されることを期待するくらいが関の山であろう。もっとも、僕はそのころまで「インターネット」などという牧歌的な通信ネットワークが現在のように維持されているとはとても思えないが。(ひとたび「オープン」になったら後戻りできないというのは、はっきり言えば漫画の読みすぎだ。インターネットという民生通信網は最初から「オープン」などではないし、する理由もなければすべきでもないのである。それに、「オープン」であるかどうかを問うべきは情報であってネットワークではない。)

さて、この叢書に収められたタイトルを眺めていると気づく方もおられるはずだが、"[...] Studies in the philosophy and history of science" といったタイトルで、フランスだのキューバだの、あるいは日本について取り上げた一巻も、長坂源一郎氏が編集の一人に加わって、主に関東の「ロック・スター」たちが書いた論説をかき集めている。

正直、個々の論説についてはどうでもいいし、「日本」なんてローカルな地域にすら興味はないが(日本科学哲学会の正会員としては不躾なことかもしれないが)、こういうアプローチの編集が他の叢書でもたびたび出てくるし、サーベイ論文のようなスケールでも発表されることがあるのを見ると、やはりどうしても地域とか歴史的な経緯というものから切り離せないという印象が残る。もちろん、「本来の」哲学の対象は地域や歴史、それどころか議論している個人という偶然の条件にすら依存しないなどと言いうるのは確かだが、本当にそうなんだろうかという疑問が常に残るわけである。かといって、あからさまに「哲学も上部構造であーる」などと高校生レベルの通俗マルクス主義への信仰などなく、そして STS や最近のフェミニズムなりクィアといったアプローチをはじめとする、社会学とか社会心理学とか(小文字の)政治学とかを短絡的に押し当てた議論に埋没させるのもどうかと思う(もちろん、僕は昔から科学哲学における「冷戦構造」とか「南部」とか「黒人問題」とは何かという視点も必要だと言ってきたので、そういう社会科学的なアプローチを軽視しているわけではない)。

ともかく、僕は「フランスの科学哲学」とか、「東アジアの科学哲学」といった視点を設定すること自体がアメリカのヘゲモニーを裏書きするような行為であり、しかもそれは(こう言ってよければ、括弧なしの)哲学とはあまり関係のない政治の話でしかない(つまり、ローティが、分析哲学とはアメリカの大学で大勢が教えていることだと言ったときの脈絡)。もし、「日本の科学哲学」とやらに何らかの地域性なり歴史的な経緯による〈独特な傾向〉があるとして、それは、僕に言わせれば科学哲学を日本に持ち込んで教えていた世代の偏見や理解不足や視野の狭さを表すものでしかあるまいと思う。そうでないなら、逆に〈日本に独特の良いこと〉なんて何があるのか。いやしくも科学哲学のテーマを『現代思想』に掲載されるような印象批評の闇鍋みたいなものとして語る愚鈍さか? あるいは三流広告会社のマーケティングといったレベルで研究テーマや著作物の内容を決めて、ものを書いたりカルチャー・スクールや大学で教える浅薄さだろうか。それとも、哲学についての自意識しか動機がない、洋書の乱読家にすぎぬ無能の集団が手掛ける〈パフォーマンス哲学〉の思想的なヌード撮影だろうか。いや、実は日本の科学哲学にはスメラミコトのいやさかなる伝統によって培われてきた、尊いやまとごころがあるというような、美しい錯覚だろうか(そんなことを言いながら、背後から拳銃で撃たれては困るだろうに)。

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