Scribble at 2022-07-09 15:40:07 Last modified: 2022-07-09 16:07:06

僕は私企業で働く情報セキュリティの実務家であり、そして役職者としてマネジメントを預かる立場にある。したがって、リスクという発想を無視してルールや手順を決めたり運用したり評価することは無謀だし愚かでしかないと心得ている。三流の営業や三流の経営者などが客先や経営会議などでたやすく口にする「絶対」とか「完全」といった、要するに自分たちの事業や業務や経営にリスクがないかのような催眠術の呪文を、毎日の朝礼や経営会議やボード・ミーティングで連呼し続けようと、現実を正確に理解して対処しようとしない(あるいは知識や経験や切実さなどが不足していてできない)凡人の仕事は一定の期間がくると経済学的な予定調和として破綻するし、無能の仕事はなおさら短期間で破綻するものだ。

誠実かつ切実に事業なり仕事へ取り組むには、この世に完全や絶対などありえず、ましてや自分のやることにそんな力などないと弁える必要がある。僕に言わせれば、こんなことは近代以降の「大人」という観念の枠内で理解したり、あるいは「先進国の教育を受けた」という更に狭い理解で語る必要もない、古来から当たり前のように受け継がれてきている知恵なり常識だと思う。しかし、これまた古来より判で押したような反論がグリコのおまけみたいに、いつでも付いてくるらしい。いわく、「理想を追求して何が悪いんですか!」というものだ。

若者がこういう減らず口を叩くのは、通過儀礼でもあるし、或るていどの教育制度が整備された国における伝統芸能みたいなものだ。よって、こんなことを言われたくらいでたじろぐようでは大人として情けないわけだが、それにしても常にこういうことを若者や、あるいは成人していても未熟な人物に言わせてしまう、いわば思考や認識の歪んだ経路みたいなものがどこかにあるとすれば、それはそれで由々しき〈クズ伝統〉であり、〈ガラクタのミーム〉であり、要するに陋習と言うべきものであろう。

なお、かような反論が反論になっていないということが分からない人もいるだろうから説明しておくと、即座に可能な質問として、彼らが求めるという「理想」や「完全」や「絶対」とは何であろうか。そもそも、そういうものがあるという前提が思い込みである可能性があるし、かりに概念として矛盾も問題もないとしてすら、「理想」とは何のことなのか。ただ単に文法的に可能な言葉の組み合わせとして意味がありそうなフレーズを工作したというだけであれば、そういうガンプラみたいなものに敵を蹴散らす本当の威力などなかろう。「完全を求めて」とか「理想の追求」などと安物の青春映画に使われるキャッチ・フレーズみたいなものを口にするだけなら、それこそ九官鳥でもできる。しかし、そこに具体的とまではいかなくとも理屈として人を説得できる前提や仮説や見通しや学識が伴っていない限り、それは空語でしかあるまい。

すると、少し出来のいい若者なら食い下がって「それでも、『何が理想なのか』を追求することから初めればいいはずだ」と言うかもしれない。そして、『動きすぎてはいけない』や『暇と退屈の倫理学』といった未熟な若者を魅了するらしい具体的な信仰の対象がないとしても、何事か目の前にある仕事や勉強や生活といった世俗の関心事(本人たちは、いま紹介した「哲学書」とやらを読むことに比べれば下らない雑事や時間の浪費だと思っているのだろうが)とは違う〈何か〉を追い求めようとする態度そのものに価値や生き甲斐があるのだと言う。

もちろん、かような通俗書を手にする連中が、40年ほど昔なら『構造と力』や『監獄の誕生』を手にして六本木あたりの書店をうろついていた青山学院や慶応の三流学生と(動機は違っていても知性として)同じレベルであることは明らかだろう。それでも、いくらか譲ってそうした態度に一定の価値があるとしても、一方で何事か自分にとって納得できる理想とやらを見出す者がいてもいいわけだが、他方で、そういう見境のない妄想の果てに地下鉄でサリンをばらまいたり、あるいは元総理大臣を撃ち殺すような人間に育たないとも限らないという、歴史が教えるもう一方の事実がある。

僕の博士課程での指導教官だった故森先生は、たびたび僕に向かって、オウム真理教の事件があってから、哲学教育が重要だと考える人が増えたり哲学の本が売れるようになったようだと言っていたのだが、僕はそういう事実があると確証できるだけの出版業界の情報を持っていなかったし、書店へ足を運んでも哲学や思想の書棚に人が詰めかけている様子も感じなかったし(当時はアマゾンなんてないから、書店へ行って本を買うのが当たり前であった)、そもそも「理系の学生も哲学を学ばなければオウム信者になってしまう」なんて危機感を大学の理数系の教員が感じていたとはぜんぜん思えないし、世の中にもそんなことを言ったり書いている人は見受けなかった。

僕が当サイトで「哲学」について書いていることを何度かお読みであれば、おおよそ察しが付くと思うが、寧ろでたらめに哲学へ取り組むことによって、毒ガスをばらまくような人間が育つのだ。哲学とは「哲学的な思惟」(思いなし)という営為にしか本質はなく、哲学の論文を書くとか、哲学の授業を受けるとか、ましてや書店の棚に並べられている「現代の知性」だの「若手の旗手」だの「元ゲーム作家」だのといったキャッチフレーズでものを書いている、単なる洋書読みや乱読家の殴り書きを読みふけったていどで哲学に関わっているなどという錯覚がマーケティングの結果として積みあがることこそ、寧ろ愚かな行動や発言をする人間を生み出しかねないのである。

これは、何も地道なふだんの生活から出発するべきだといった保守的な態度を勧めているわけではない。そういう目の前の目標とか作業とか責任だけにとらわれていてはいけないのも確かであろう。しかし、多くの人々は "if-then" 式の条件を設定したり調べて、それに応じてそれぞれ別のことを考えたり実行するという、いわば丁寧な生き方を予想外に軽視する傾向がある。理想が大事だと言い始めると探求するという無軌道な生活に埋没したり、あるいは現実が大事だと言っては既存の生活や習慣に安住するというわけである。そして、このような短絡こそを一つ一つ何の正当な根拠があるのかと問いなおし、何の問題もなさそうに思える立ち位置の地盤を引き剥がして見せることが、哲学的な思惟の一つの効用であり危険性でもあろう。

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