Scribble at 2022-07-01 22:53:37 Last modified: 2022-07-01 23:13:28

LSE の Roman Frigg (romanfrigg.org) が書いたオープン・アクセスの本を取り上げようとして、国内の現状についてあれこれと書いてたら、本当に萎えてきた。

日本の科学哲学のプロパーは50年ほど日本語で本を書くのはやめてみたらどうだろう。国内で英語で書いても出版してくれないなら、どのみち国内の出版社にとっては科学哲学の本が出せないなんてことで大してリスクはないんだから、海外の出版社からだけ出すとか。本を出さないと大学での地位が安定しないというならともかく、いまどき単著なんて出せる人の方が少ないだろうし、出せたとしてもたいていは生涯に5冊以内だろう。逆に、そのていどのことだけで地位が安定してしまう大学行政の方が人事としては腑抜けだし、大学教員の評価能力がないと見做されてもしょうがない。その結果、優秀な教員も学生も集まらなくなって自滅しようと、まぁどうでもいいことだがね。

たとえば、本人は好きでやってるのかもしれないし、何らかの見識があってのことだと思うけど、平井さん(Hiro Hirai)なんかが日本語で啓蒙じみた本を編纂とかしてるのって、単純に浪費に思えるんだよね。もともと日本で西洋中世史や近世史に興味をもつ人なんて限られてるし、はっきり言えば通俗本なんてなくてもそういうことに関心がある若者は、そういう関心があるというだけでプロパーに育つんだよ。もっと言えば、学者となるかならないか、あるいは学者として有能かどうかなんて、読書で決まるわけでもなんでもないんだ。読書遍歴の決定論なんか僕は信じていないし、そもそも本を読むことが必要条件であるかのような錯覚を集団で抱いている国家の文化なんて、絶対に〈継続性〉がなくて衰退すると思う。戦争が始まったら、君らプロパーでも本なんて読んでる暇なんぞねーんだよ。そして、こういう議論の仕方を何かマッチョとか右翼の好戦思想を語っているかのように誤解する人がいたりするのも、そもそも僕らたいていの大人は生活において多かれ少なかれ何かと対峙したり駆け引きしているのだという、当たり前の事実をわかってないからなんだよね。社会人が働きながら資格試験の勉強したり、あるいは「哲学書」(それが『嫌われる勇気』だろうと『超訳ニーチェ』だろうと、あるいは小川何某や内田何某の通俗本だろうと)を手に取っているのは、アーム・チェアに腰かけてワインの良し悪しやトロッコ遊びを語ってるような分析哲学のお歴々が悩んでみせている各種のパズルを解く動機とはぜんぜん違う。

もちろん、どちらが正しいという話はしていない。凡俗の生活感覚が象牙の塔で戦わされる議論に勝っているなどという、左翼的なファンタジーを思いめぐらせたところで何の業績も生まれない。実際、ソローだ、波止場の哲学者だとさんざん持ち上げた「市井の哲学者」(言っておくが、僕らアマチュアはこんな茶番の登場人物などではない)の著作を読んで、結局はだれがどういう業績を出したの? なんにもないじゃないか。

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