Scribble at 2022-07-01 19:31:33 Last modified: 2022-07-01 19:34:34

さきほど書店で2冊の新書に興味を持った。

1冊は、2020年に出た『よくわかる思考実験』(髙坂庵行/著、イースト新書Q、イースト・プレス)という本だ。思考実験とは、そもそも複雑だったり難解な仮説や理屈や学説を「わかりやすく」するために考案されるものではないのか。なんで「よくわかる」なんて本がないと思考実験が分からないなんてことが起きるのだろう。もう思考実験すら「よくわかる」ように説明してもらわないといけない人というのは、はっきり言えば時間を何年か学校で過ごしただけの人であって、義務教育の範囲でいいから学び直した方がいいと思う。(というくらいの皮肉で片づけておきたい。)

もう1冊は、新刊として出ていた『人はどう死ぬのか』(久坂部羊/著、講談社現代新書、2022)だ。こちらは、もちろん当サイトでも公開している "thanatophobia" について何か新しい知見でもあろうかと思ってページをめくってみたのだが(『よくわかる思考実験』は背表紙だけでいい。学術研究者どころか企業の部長職にこんなものを読む暇などない)、はっきり言って買うまでもないと思った。僕が「死を恐れるということ」で紹介した、"thanatophobia" を論駁する最も強力なスタンスとして紹介した議論と 1mm も違っていないからだ。つまり、「ハイ、それまーでえぇよぉ~! ふざけやがって、ふざけやがって、ふざけやがって、コノヤロー!」論法である。

僕は、この論法は詭弁の一つであろうと思う。この論法によれば、死んでしまうことで死の恐怖は消え去る。なぜなら恐怖を感じる主体が消失するからであり、これは認知科学的に避けられないことだろうし、それが現実に起きればそうなる他にないからだ。しかし、それは死の恐怖という〈現象〉が起きた場合の出来事を述べているだけであり、論理的には何も言っていないのと同じである。この理屈を応用すれば、我々は1+1=2であるか1+1=3であるかに悩む必要はない。なぜなら、死んでしまえばどちらであろうと関係なくなるからである。差別は社会にとって必要か、それとも差別のない社会が理想であるか、われわれは学んだり研究する必要なんてない。なぜなら死んでしまえばどうでもいいことだからだ。こんなわけで、死ねば死んだ当人にとってのあらゆる価値や意味が消失するからといって、それらの価値や意味について考えたり悩んだり恐れる必要はないなどと誰が言えるのか。

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