Scribble at 2022-06-29 13:48:14 Last modified: 2022-06-29 14:40:29

何週間も前からゲオルグ・ヘンリック・フォン・ヴリクトの『論理分析哲学』(講談社学術文庫、2000)を読み続けている。何か時間を取っているわけではなく、はっきり言えばトイレに入って用を足すときの暇潰しに開いているだけだ。そして、冒頭の序文で興味深い記述をご紹介したこともあるのだが、どうも読んでいて典型的な概説書というか、内容は北欧の話が出てくるから類書に見られない関心を引くのだが、テキストとしては凡庸極まりない印象が残る。彼の『説明と理解』(産業図書、1984)は、僕が戦後の英米哲学に関心をもったときに初めて読んだ本だと言ってもいいくらいの印象を残す一冊だったのだが、いまこうして読んでいる『論理分析哲学』は、いまいち読み進めようとするだけの意欲が出てこない。

簡単に言えば、この本で書かれているのは「政策」ではなく「政局」の話ばかりだ。誰が何とか主義であるだの、何とか主義から何とか主義が出てきたり対立していただの、誰が何というタイトルの本を書いたとか、いつの生まれだとか、それ哲学として叙述するべき考察とか概念とか学説に関係あるんですか? いわば、民主主義について解説するために菅内閣で誰を財務大臣にするべきか党内で議論があったとか、そんな話をしているのと同じである。そして、僕が「哲学の教科書や概論なんて読んだり聴講しなくてもいい」と言っている、まさにその理由となるのが、『論理分析哲学』の冒頭にある「哲学の現況」という文章だ。これ、哲学と何の関係もないと思う。

もちろん、後のページまでずっとこんな「政局」の話が続くとは思っていないが、冒頭にこういう文章をもってくるのは(というか、そもそもこんな文章を哲学の議論であるかのように入れること自体)どうなんだろうと思う。分析哲学とマルクス主義とか、ヘーゲル左派と現象学とか、スコラ哲学と実証主義とか、それらに単純に違いがあるとか歴史的な経緯があるとか、それだけを書き連ねても雲を掴むような話でしかない。そして、素人にはその手の「政局」の話に通じるのが哲学オタクへの第一歩だという錯覚を植え付けることになる。

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