Scribble at 2022-06-22 18:34:04 Last modified: 2022-06-22 18:35:46

実務の問題として、限られたリソースだけを参考にしながら研究するというのは、恐らくアマチュアであろうとプロパーであろうと、誰でも自覚のある状況だろう。第一に、ママやパパがくれるお小遣いをもらっても世界中の本を買えるとは思えない。第二に、どれほどの天才であろうと研究に関係がある全ての本をサヴァン症候群並みの速さと記憶力で読めるとは限らない。第三に、研究に関係がある本がどれであるかを知っていたり見つけられる保証がない。第一と第二の制約なり条件はテーマを絞ることによって対象の本を少なく見積もったり、場合によっては無視できるだろう。でも、だからといって the justification of induction をテーマにする人が "the justification of induction" というタイトルの書物や論文だけを検索して買い集めたら終わりというわけではない。

しかしそうは言っても、必要だからというだけの理由で幾らでも読めばいいというわけでもないし、それを理由にいつまでも論文を書かないのは職責に反している。大学やシンクタンクのプロパーは学術研究者であると共に(「であるより先に」と言うべきか、あるいは「であるだけではなく」と言うべきかは、もちろん自明ではないかもしれないが)高等教育サービスの提供者であり、社会経済制度に支えられている組織人である。よって、ピースミールだろうが積み木遊びだろうが、手堅い成果を積み上げていくしかないのも事実だろう。それとも、『ニコマコス倫理学』や『純粋理性批判』や『ことばと対象』や『グラマトロジーについて』や『精神現象学』や『人間知性新論』と同レベルの著作を書けるようになるまでは論説を世に問わないなどという、表向きは厳格で深刻で真摯でストイックに見えるが、なんのことはない気楽な稼業としての哲学教員を続けられる社会が本当に〈良い〉社会だという信念でもあるのだろうか。

もちろん、このような議論は実のところ決定的なポイントを不問にしている。つまり、哲学における成果というのは、本当のところ公表するような類のことなのかどうか自明ではないという重大な点が一つあり、そしてもう一つは、プロパーに論文の ePub データを読ませたら〈まともな〉哲学論文が出力されるなんて手品はありえないということである。

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