Scribble at 2022-06-20 16:10:44 Last modified: 2022-06-20 16:11:33

Since there is no definition of computation without reference to an external observer, a system in isolation just cannot compute, which suggests that a conscious being cannot compute. Maybe parts of the brain can compute with respect to other parts, but no computation is possible in the mind taken as a whole. Unfortunately in arguing that consciousness is not computation, we end up struggling to imagine how the mind can compute anything at all.

Consciousness is not computation

この手の話は、もちろん上記の記事でも筆者が指摘しているとおり、自分たちが何について議論したり証明したり反駁しようとしているのか、殆ど分かっていないという致命的な欠陥なり制約がある。そして、cognitive closure を支持している僕の立場からは、これが或る意味で解決不能であるという現状は当然のことでもあるし、そうである他にないと思う。

上記の議論を簡潔に言い直せば、「意識」は外界の観察者(との合意)を必要としないのに、「計算」は外界の観察者(との合意)を必要とするため、これらは同じではないということである。或る何らかの物理的なプロセスとか、その形式的な制約条件を「計算」だと〈見做すかどうか〉は、要するに僕らが一人で勝手に決めたり議論してよい問題ではない。それに比べると、僕自身に意識があると〈認知するかどうか〉は、他人が同意するかどうかの問題ではないし、それどころか僕以外の他人が宇宙に存在しなくても関係がないのだ。

これは、もちろん強力な議論の一つであろう。筆者は意識があるという自覚を「クオリア」と呼んでいるが、僕にしてみれば〈それ〉が「クオリア」であるかどうかすらも、はっきり言って哲学的にはどうでもよいことである(議論のための便利な道具でしかあるまい)。僕にとっては、〈それ〉が無くなるということは、すなわち〈僕〉が意味を失うということでもあり、そもそも失うとか無くなると言われうる何かが消失してしまうことでもある。僕にとっては、〈それ〉だけが重要であり、それが厳密な概念として意識であるかどうかとか、計算とか機能として記述したり説明できるかどうかなんて、本当のところどうでもいいわけである。説明できたところで、〈それ〉を永続させたり保存したり移設できなければ、いつかは消失してしまうわけであって、正確に語れたところで数十年後に無くなってしまう何かの話をしても仕方ない。それよりも、消えてしまう前に自分が為すべきことを着実に為す他にない。

何のために意識を考えたり議論するのかというポイントを見失ってしまっては、科学哲学の論説であっても分析哲学の概念パズルと同じになってしまう。

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