Scribble at 2022-05-31 12:48:14 Last modified: 2022-06-08 09:13:37
僕が、哲学的にはもとより経済や政治に関しても「リバタリアン」という思想が自己破壊的でバカげていると思える理由は、すごく簡単なんだよね。
探検家と称する人に「やりたいなら勝手にやってろ」って言う人がいるけど、文明国ではひとまず自由にやってる連中でも遭難すれば捜索隊を出す行政的な義務がある。現代は、好き勝手に探検なんてやれない。探検というのは、やること自体に巨大な資金が必要だからスポンサーを集めたりしなきゃいけないし、一種の「ベンチャー」とすら言える。リバタリアンの理想から言えば、好き勝手にどこぞへ行って、死んでも勝手だというわけなのだけど、もちろん現代どころか昔から、世界はリバタリアンみたいな単細胞どもに最適化されたようには出来ていない。
まず第一に、「好き勝手にどこぞへ行く」こと自体に無理がある。「探検する」などと言うだけで入国させてくれる国は、たとえ日本人であろうと多くはない。ましてや探検の名に値する秘境とか山であれば、なおさらだ。第二に、現代はたいていの秘境は国立公園だったりして、入ること自体に行政の許可がいる。また、山についてはシェルパやガイドが同行しないと入らせてくれない場合も多いし、入山にあたって記録をつけることも求められる。もちろん、リバタリアンと称する人々は、そうしたことをすべてチートして掻い潜り、好き勝手に秘境や山へ入るのだろう。そして、場合によっては先住民に殺されたり(いまでもありえる)、密猟者に殺されたり、テロリストに殺されたり、あるいは偶然に通りかかったゴロツキに殺されたりするかもしれない。あるいは、野生動物や昆虫などに襲われることもありえるし、どのみちリバタリアンなんて馬鹿だから事前に何のワクチンも打たず、あっけなく何かの病気で倒れることもあろう。なんにせよ、リバタリアンなどという、はっきり言えば中二病みたいな連中に、自由に独立して物事をなす度量も知性も腕力もサバイバル能力もありはしない。たいてい、どこで何をしようと瞬殺されるのがおちだ。
ちなみに上記は、一見すると多くの方々が「リバタリアン」という言葉で思い描く、経済や政治に関するリバタリアンの話とは違う的外れな議論をしているように見えるかもしれないが、こういう愚かな探検家(探検家が本質的に愚かなのではなく、愚かな類の探検家だ)について議論しても同じことだ。「自由」の名において脱法的に事業を展開しようとしたり、あらゆる規制を悪として打倒しようとする起業家が口にするリバタリアニズムについても、しょせん向こう見ずな山登りと程度は同じなのだ。金儲けや制度の話題にかかわっているから、探検よりも切実だとか高等だと思っているなら、それはただの錯覚である。
で、リバタリアンというのはアホでも少しは思想的な一貫性とやらを求めるだろうから、死んでも「放っておいてくれ」というのだろう。でも、気の毒に行政職員というものは、愚かな若造が無免許でバイクを乗り回し、時速 100km で爆走した後に壁へ衝突して頭が吹き飛んだ現場を掃除したりするのだ。あるいは、彼らリバタリアンとやらが勝手に国立公園や行政的に保護している原住民の土地へ入って消息を絶ったら、やはり莫大な税金を使って捜索隊を組織して、検死のためだけでも例えば野獣に食い荒らされた死体から首の一部とかチンコを持ち帰ったりしなくてはいけない。どれほど「自由」を口にしようと、そんなものが無制限に保証される社会などないのだ。
哲学者ですらリバタリアンはいるわけだが、それは自由 — それが freedom であれ liberty であれ — という観念を、歴史や社会という脈絡や条件において正確に理解できていない人もいるという事実を示している。そして、形式的かつ抽象的に作り替えたり描きなおした観念のスケルトンみたいなものを、直に文化や制度や生活に当てはめられるという、救いようのない馬鹿がハーヴァードの教授とかをしているのが哲学という分野なのだ。こういう危険性があるという自覚をもって、哲学を学びたいとか哲学書を読みたいという若者には指導するよう、大学教員には願いたいものだ。思想は、現実に人を簡単に殺してしまう。しかも、皮肉なことに思想や哲学という観点で言えば、ほとんど無意味で愚かとしか言いようがない死にざまだ。