Scribble at 2022-05-31 09:51:08 Last modified: 2022-05-31 11:15:12

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著者は「科学史」、「科学哲学」の学者だそうだが、そんな学問があることを私は初めて知った。科学者ではなし、音楽だってアマチュアチェロ奏者に過ぎない。要するに著者は、素人に毛が生えた程度の「評論家」に過ぎないのだ。教養人とは、畢竟、あらゆる意味で実務に関係しない野次馬なのだ。

物知り博士

村上陽一郎氏の『エリートと教養-ポストコロナの日本考』(中央公論新社、中公新書ラクレ 753、2022)に付けられた、或る意味では典型的な素人の感想だ(京大の人物については評価しているらしいので、単純な「庶民の本音」という妄想にイカレた反知性主義というわけでもなさそうだ)。

当サイトの "About" ページで掲載している "Street fight" という文章でも書いているように、科学哲学や科学史について、たいていはレビュアー自身が理学系の博士号どころか学卒かどうかすらも怪しい連中が書き殴るときの、典型的なやっかみと言ってもいいメンタリティ(凡人の文書つまり言表なんてものは、われわれ哲学者からすればどうでもよい。要は、こんなものの見方や理解や考え方しか選択の余地がないという〈料簡〉の問題だ)に、実際のところ黙殺する以外のどういう弁解とか説得ができるのかという話題は、少し真面目にプロパーや出版社の編集者が考えてもよいのだろうと思う。そして、可能なら「そういうことについて考えている」というプレゼンスを確保するためにも、自分たちが何をどう考えているか公表するべきだ。本来、アウトリーチというものは思想オタクや哲学ファンに上げ膳据え膳で他人の前でウィトゲンシュタインやデリダを語るイージーな取説を提供するような行為のことでもなければ、クズみたいな自称哲学書や自称思想書を手にした人々が勝手に妄想したり議論して、プロパーと同等のバーチャルな資格や立場みたいなものを手にするための〈学問への裏口〉へ手引するような行為でもなかろう。僕が思うに、学術研究という営為のアウトリーチというものは、自分たちの成果を「かんたんに」、「わかりやすく」語るなどという日本のクズ出版社がよくやる知的離乳食の製造販売を意味するような暇潰しのことではない。自分たちがやっていることの implication(とりわけ学術研究の「ステークホルダ」に関わる)を示して、その意義を説明することだったり、自分たちがやっていることの(自分たちが知りうる限りでの)正確な範囲や限界を自ら述べることでもあろう。そうすることで、straightforwardly ではなくとも、逆に不見識で錯覚を抱く素人を〈門前払い〉できるという効果もある。そして公にすることで、上記のようなバカが書く文章と、自分たちの文章を読み比べてもらい、どちらが「まとも」なのかを多くの人々が考えたり判断できるようになる。アウトリーチについて、新入生を部活へ勧誘するビラだとか、あるいは無能な国家官僚に依頼されて広告代理店が制作する(そしてたいていは巨乳のアニメキャラをマスコットにした)キャンペーン・サイトみたいなものだと錯覚しているからこそ、アメリカだろうとフランスだろうと効果的な成果を上げられないのだ。

さて、上記のレビュアーが(或る意味では)的確に指摘しているとおり、科学史や科学哲学は多くの人々(そもそも、そういう分野があると知っているとしての話だが)からは「評論家」や「アマチュア」や「野次馬」と見做されている。"Street fight" でも書いたように、われわれには「そう。そして、われわれ科学哲学者は〈プロの野次馬〉なのだ」と、或る意味で開きなおるという手もある。なぜなら、科学哲学は、まさに科学を科学者としてではなく〈科学者ではない者の観点や脈絡〉で理解したり考える活動だからだというわけである。

科学の成果や、科学の成果をもとにした製品や施策や技術などが、科学者以外の人々の考え方や生活に関わる以上、科学にはそれ自体での意義や価値だけではなく、成果や影響という関わりの中で評価されるべき意義や価値もある。そして、それらは広範な分野で様々な段階を経て応用されるため、科学以外のどれか一つの具体的な分野だけで理解したり評価できるとは限らない。そこで、そうした個々の分野とか脈絡での評価を助けるためにも、抽象的なアプローチを使った一般論が検討されてよい。科学哲学の、アウトリーチで公表するべき一つの眼目は、このようなものになるだろう。プロパー、そして得てして安っぽいプライドや錯覚に陥っている無能に限って、哲学を「抽象的な議論」だとか「一般論」だと明け透けに表現することを毛嫌いするものだが、素人はそもそも〈まともな理解〉との比較ができる立場にはないのだから、しかるべき知性や常識を備えた人物として何事かを学ぶ誠意をもっていると仮定できる限りの素人が理解できるていどに合わせて説明するより他にないだろう。

ということで、上記のようなレビューは、端的に言って「おれも村上陽一郎氏も科学の素人という点では『同じ』だ。俺にも権威をくれ! 俺も上智大の教授になって教え子の女子大生と結婚したい!」と叫んでいるにすぎないとわかる。反知性的なことを言う人の多くが、ありていに言って低学歴の(しかも、いま現在の自分がやろうと思えば勉強できるのにしていないという)コンプレックスでものを言っているにすぎないクズであるのは、人類の歴史において下らない理由で学者や思想家がリンチされたり惨殺されたという膨大な事実が示す教訓というものだろう。そして、そういうクズにも簡単に文書を読まれたり成果を手にされているという、皮肉な意味で「自由」かつ「民主的な」国に生きている限り、彼らとの street fight は避けられない。僕が思うアウトリーチには、そういう防衛的(または戦闘的)な意味合いも含まれている。学術という営為は、ひとりでに成長したり発展するものでもなければ、自由主義や民主主義の国家というだけで自由に研究できて正当に評価されるとも限らない。それこそ、ソクラテスの時代に起きたと言われるエピソードを知る者として、いたずらに社会とか凡人に疑心暗鬼をもつ必要はないとしても、無条件に自分たちの活動が評価されたり許容されると思っているなら、それは酷い錯覚だと言いたい。

時代が時代なら、上記のレビューを書いたようなやつがシュリックを拳銃で撃ち殺したのかもしれないし、ソクラテスを毒殺に追い込んだのかもしれないし、ヒュパティアの目を抉り出したのかもしれない。

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