Scribble at 2022-05-29 08:30:54 Last modified: 2022-05-31 10:04:23

修士課程、とは言っても僕が在籍していた関西大学では通期の制度を採用していたので、「博士課程前期課程」という面倒臭い呼び方をしていたわけだが、大学院へ進学した頃にバイト先の後輩がシモーヌ・ヴェイユを熱心に読んでいて、「やっぱり哲学を勉強するにはフランス語をやった方がいいんですかね」と聞かれたことがある。そういう場合、プロパーの多くは似たような経験があるだろうから似た対応をする人もいると思うが、僕も「そうなのかどうか、では一緒に考えてみよう」と、仕事が終わったあとで後輩と一緒に入った中華料理屋で話を始めたことがある。ちなみに、僕がアルバイトしていた当時、勤務先の大阪府立図書館は「夕陽丘図書館」と呼ばれていて四天王寺の近くにあったのだが、勤務が終わると近くにあった小さい中華料理屋へ後輩としばしば立ち寄り、焦げすぎて真っ黒になったチャーハンを食べたものだった。食事が終わると、僕は生野区に住んでいたから徒歩で東に向かって歩くだけだが、後輩は奈良から電車で来ていたため、そのまま北上して近鉄上本町駅まで行っていたようだ。

ともあれ、後輩との話は、人によって長いとは感じるかもしれないが、少なくとも複雑ではなかった。

まず、いま現在(つまり当時)の日本で暮らしているという、色々な意味で特別だったり幸運だったりする状況を仮定しても非難されることはないのだから、これを拒否する十分な理由はないと仮定してい良いだろう、という話から入る。僕らが会話していたのは1990年代の中頃であって、既に数多くの日本語で書かれた教科書や古典の翻訳書が出版されていた。さて、これら他人の成果を説得力のある根拠もなしにすべて疑い、洋書でしか哲学は学べないとか、留学しなければ哲学は分からないなどと勝手に思い込んだところで、そもそも「哲学を勉強するにはフランス語をやった方がいいんですかね」と他人に質問している者は、そういう比較そのものを自分で行って判断できるほどの外国語を習得していないのだから、そういう比較自体を他人の判断に強く(そして根拠もなしに)依存していることになる。つまり、「他人を信用するな」と言っている他人を信用しなくてはいけなくなるのだ。しかし、これも偶然あるいは歴史的な事実にすぎないかもしれないが、そういうことを言って通俗的な哲学の読み物を書いて出版したり雑誌の記事として書いている人物に限って、国際的なステージどころか国内の学界というスケールで見ても、さしたる業績がなかったりする。東大とか慶応とかの、少なくとも大学教授だったり大学院の出身者ではあるかもしれんがね。

余談だが、もちろん、いまここで僕が書いている文章についても、同じことが言える。別に何の業績もない者の一人として書いているにすぎないのだから、何か強い説得力があるわけでもないのだ。でも、それはここに僕が書いていることは嘘や間違いだと言っているわけではないし、いわんや人を欺こうとして書いているわけでは断じてない。自分で自分の言うことを信用するなと書く人間は、自分では謙遜しているつもりなのかもしれないが、もし本当にそうなら、人としての節度がある限り、そもそも何も言ったり書いたりするべきではなかろう。自分の言っていることを信用するなと言いつつ、それを人前に公表している時点で、それが自己欺瞞や矛盾だと気づく力くらい、いくら日本のプロパーや物書きが無能でも哲学を語るには最低限の知能が必要だろう。僕の言っていることは正しいから読めとか聞けなどと言いたいわけではない。どちらにしても、書いたり喋っている当人が自分の書いていることや物事の正否を自分で保証するなどということは馬鹿げているというだけの話に過ぎない。

さて、これらの遠回りな話を色々としてから本題へ進む。少なくとも哲学や思想に関心をもっているなら、この程度の遠回りや準備や予備考察くらい我慢するべきだし、もちろんクズみたいな自称哲学書に手を伸ばすような人々が求める手軽な〈チケット〉なんか、僕は誰に対しても提供したりしない。僕は大学教員ではないから、哲学に関して相手が誰だろうと「サービス」する責任などないからだ。それに、真面目に哲学へかかわろうとする気があるなら、メタレベルの議論や予備考察にも関心があってしかるべきだろう。

でも、本題の会話は酷く簡単なものだった。つまり、日本語で読める哲学の本が無条件に有益かどうかについて素人や無能が語ることへ耳を傾ける必要なんて最初からない。これは明らかだ。そして、もしプロパーが自ら「翻訳書や日本語で書かれた哲学の本は無益だ」などと真顔で言ったり書いているなら、意図を確認する必要はあるかもしれないが、字義的に理解すれば、その人物はそもそも大学で(日本語で)哲学を講じるべきではないという話になる。よって、これらを斥けて残るのは、日本語で読める本が哲学を学ぶために何の役にも立たないなどと言う主張は信用するべきでないという選択肢だけだろう。

日本人が書いた本だとか古典の翻訳書で哲学は分からないと主張するプロパーの意図を確認する必要があるのは、読み物でわからなくても講義や会話でなら分かると言いたいからかもしれないからだ。もちろん、たいていそんな意図はないだろうし、仮にあったとしても講義や会話だけは優れているプロパーなんて、少なくとも僕の経験した限り誰がそうだったなんて話は聞いたこともないわけだが。ともあれ、こういう主張を支持する人がいるだろうとは予想できる。古代ギリシアにおいては、対面での言論をもって意見やアイデアを交わす中に知恵を見出すチャンスがあったという、これにはこれで一定の説得力がある見識も広く認められていたからだ。でも、僕はそういう対話の効用だけで、文書を読むことの効用は否定できないだろうと思う。読書するだけで対話の効用を直に妨げるなどということはありえないのであって、両方を併用してもいいのだから、そういう主張は英語の言い回しを使うと comparing orange and apple というものだろう。更に、哲学を学ぶにあたってフランス語を学ぶ必要があるのかどうかという特定の問いに対して対話が有効だと答えるなら、では日本人同士でフランス語で対話すればいいのかとか、日本に住んでいるフランス人としか哲学の話ができないのかとか、そういう暇潰しの頓智みたいな議論を始めることになるのではあるまいか。

大人の見識として、既に教育課程で人が自由に履修できる学科として100年を超える実績があることがらを、いまどき外国語でしか学べない(あるいは外国語のリソースでしか「正しく」学べない)などと専門家や教員の立場にある者が発言したり書くのは、はっきり言って恥を知れとしか言いようがない。僕は、長谷川某のような二束三文のネトウヨが哲学と日本語について何を言ってるかなんて微塵も興味はないが、日本語を母語とする者の一人として、そのうえで「哲学」と呼ばれている営為について何事か他人へ語るべきことがあると(今のところは)信ずる者の一人として、上記で展開した議論が愚劣なものへ転落していないと信ずるに足りる限り、日本語で書かれた著作物の中には哲学を学ぶにあたって信頼に足りるものがあると何の恥じらいもなく言ってよいと思う。もちろん、その中に『超訳ニーチェ』やら『ソフィーの世界』やら『嫌われる勇気』やら、お勉強がどうしたとか小平の高速道路がどうとか、抹茶がどうだの、古典の雑で愚劣なカタログを並べて政府の何とか委員になった教育学者の本とか、似たようなことをして早稲田の「有力教授」に何かしてもらったらしい人物、あと元 SE とかゲーム作家とか、要するにどうでもいい連中の本が僕の信頼するべきリストに〈絶対に〉入っていないことは、ここで敢えて明言させてもらう。

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