Scribble at 2022-05-24 19:47:33 Last modified: 2022-05-25 12:51:34

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4月27日は「哲学の日」。紀元前399年のこの日にソクラテスが毒杯を仰いで死んだという俗説に由来します(なお、これは俗説のようで典拠は不明です)。哲学と言えば、難解で、役に立たないことの代表のように言われることもありましたが、近年「哲学の復権」が語られています。私たちの生きる世界が、歴史的、社会的、人間史的な逼迫のなかにあり、悪い方向への転換点にあるのではないかという問題意識が、思索への回帰を促しているのかもしれません。小社書籍から、比較的近年に刊行したものを中心にご紹介します。

哲学の日

初心者、あるいは若い人たちに言いたいのは、この手のイベントや宣伝にこそ〈哲学的〉な思考を当てはめて厳しく自らを律しなくてはいけないということだ。義務教育までの社会科を真面目に勉強すれば、哲学の「復権」って、なんでそんなことが必要なんですか(上部構造だから革命的プロレタリアートのお墨付きが必要なのかね)とか、いやそもそも「復権」って誰がどういう見識のもとに言ってるんですかとか、幾らでも突っ込む余地がある。

こんなものが哲学と何の関係もないマーケティングであることは、恐らくまともな知性があれば中学生にとってすら自明だと思うが、それでも「善良な」大人の中には、馬鹿であるがゆえに「こういう機会があってもいいんじゃない」などと、下手な少女漫画に出てくる物分かりのよいイケメン・パパみたいなことを言うやつがいるものだ。そういう手合いこそ、哲学を志すものであれば敬して遠ざけるべき、おそるべき無能・凡人の姿である。

もちろん、このページに並べられている数々の本を手に取って読むのは一向に構わない。統計的な関連性だけで言えば、こういうものを読むことと〈哲学する〉ことには、特に正も負も相関がないからだ。僕が日頃からここで書いている「ゼロ算術」としての空虚な読書や些末な哲学イベントへの参加といった暇潰しにも、何らかの意味や意義があると称するのが、小平の英雄とか立命館のナルシストの奨励する「哲学」であってみれば、そういう時間の浪費に身を投じて刹那的に生きることも、自由に死ぬまでの時間を過ごす一つのスタイルというものであろう。

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