Scribble at 2022-05-06 16:42:24 Last modified: 2022-05-12 07:40:35
読書人はユーチューブを馬鹿にしていると考えたり、動画を参考にしている人は少ないと想像したりする方々も、まだまだ多いかも知れません。しかし歩みはゆっくりですが、世の中は確実に変わってきています。とくに若い世代ほど、順応性は高いと思います。
ヒロ・ヒライさんは若獅子賞を受賞された頃から幾つかの媒体で拝見しているので、なんだかんだ言っても20年以上は活動を眺めている。もちろん日本で上梓された編著も拝見していて、これまでに何人かが Twitter や Facebook で紹介している投稿も見た。正直言って、出版社に営業方針を指南するほどのプレゼンスがある人物ではないにしても(彼が言及している通俗物書きコンビすら、実際には大してプレゼンスは強くない。科学哲学のプロパーは彼らの動画を見てもいないだろうし、無視して何か学術的に致命的な不足が生じるかどうか不安すら感じていまい。それが、良くも悪くも「アカデミズム」というものだ)、西洋中世の科学史に取り組むなら必ず彼の著作を手に取ることとなる筈だ。
さて、記事の要点としては、営業方針として SNS と動画にも取り組むことを勧めている。もちろん、マーケティングとして採用できる媒体には予算や人員などリソースの割り当て可能な範囲で取り組むというのが原則であるから、最低でも大学を出て営業職に就いている人間が、この程度の営業方針を考えないわけがないだろう。そして、実際に国内の大半の出版社は Twitter のアカウントを持っていて、毎日のように出版物の広報を投稿しているアカウントも多い。そして、あの「ご恵投ツイート」と呼ばれるものも、そこそこ実行されているのだろう(申し訳ないが、僕は Twitter のアカウントを鍵付きでプライベートの用途にしか使っていないため、家族以外のアカウントは全てリストに入れていて、しかも日本人の大半はリストに入れていない。いま日本の学者が Twitter でどういうツイートを投稿しているのか知らないし、実際のところ興味もない。そして、それゆえに少なくともアマチュアの科学哲学研究者として何か決定的な不足が生じるのではないかという不安もない)。
しかし、何か SNS アカウントの運用が上手い人物を担当者に据えたり、上場企業のアカウントがやるように風変りなツイートや同業者とのリプの連携で何かパブ狙いの話題作りをすれば専門書が売れると期待しているなら、そういう素人臭い話はやめた方がいい。僕が在籍している会社は受託で Twitter アカウントを代行して運営していたりするから、僕も SNS を利用する広告の事情を少しは知っているわけだが、誰がどうやるのが結果として多くの衆目を集めるのかは、なかなか簡単に分からないものだし、多くの人々の話題を集めるのは、やはり最初からフォロワーが多い大企業や有名人のアカウントから発せられるツイート(に RT してもらうこと)である。
そして営業方針についてはともかく、経営方針から見て本当に良いかどうかは別の問題だ。つまり、僕がよく使う(敢えて揶揄するための)言い方を繰り返すと、「ケツが出てるようなミニスカートを穿いた女子高生の萌えイラストを表紙にした哲学書」をばら撒いて販売実績を上げることは、確かに営業マンとしては一つの成果かもしれないし、しょせん出版社なんて金がなければ事業が続かないのだから、経営としても好ましい結果ではあろう。しかし、そういうものを「思想書」だの「哲学書」だのと飛びつく愚かな人々(僕は若者だからといって、そういうものに飛びついたりしない見識ある若者だっていると思うので、若いということと愚かであることに強い関連性があるとは思っていない。『嫌われる勇気』に飛びつくオッサンやオバハンもたくさんいよう)に1万部の「超訳ウィトゲンシュタイン」だの「お勉強がどうたら」だの「ナウいシステム開発用語を使って哲学を語っちゃうよー的な何か」といった駄本を売りさばいたり、あるいは「読めない」などと断定する権利など誰にもないが、少なくとも Twitter や「つべ」の動画で知って『フレーゲ哲学の全貌: 論理主義と意味論の原型』とか、岸君には悪いが『ディスタンクシオン』2巻をジャケ買いするような人々が増えたら、それでいいのかという問題は別だろう。
つまり、平井さんは popular であることが正義だという、40年前に栗本慎一郎が糸井重里(と博報堂)と一緒に宣言したようなポップ・アカデミズムの再来を期待しているのかということだ。かつて青学や慶応の学生が青山ブックセンターの包装紙を巻いた『G・S』を片手にレイプ・サークルを運営していたのと同じことが、吉野家の割引券ではなく『史上最強の~』とか『暇と退屈の~』とか『言語が消滅する~』とか(幻冬舎から出すとか、哲学に従事してる人間として恥を知れと言いたいね)を手にした愚劣な連中によって繰り返されるかもしれないわけだ。
それは、彼の本意かどうかは不明なのだが、しょせん商品の販売というものはそういうものであろう。書く側や編集する側の意図なんて簡単に貫徹できるものではない。社内の営業マンすらセールスのスクリプトからして正確にコントロールなんかできないのが現実の企業組織というものなのだ。しょせん、誰に読んでもらえたなどという美談の類は、「歩留まり」として夥しい数の無意味な販売実績から掬い上げた幸運な例外にすぎない。それを期待して、数打ちゃ当たるとばかりに分母だけを闇雲に増やしていくのだと割り切るのも一つの見識ではある。ただ、少なくともそれは、僕が彼のような人物に期待する見識ではない。
もちろん、一定のセールスが実績として積みあがらなければ「次」がない。出版事業とは、毎回の出版が一つの投資であり企画であり商品開発なのだから、一つの会社でベンチャー活動を繰り返しているようなものだ。常識的に考えると、凡人がやっている生業として、そういう継続的なチャレンジが事業を継続させるだけの実績を残しつつ永続する方がおかしい。それゆえ永続している出版社には、いま述べたような割り切りがあって、学術書を出す一方で週刊少年雑誌やクズみたいな新書とか小説を売りまくっている。もちろん、それらのどちらが出版事業の「本質」であるとか「正当な目的」であるなどと優劣を議論するのは、社会科学として間違っているし、僕も含めた企業人としても醜悪なアカデミズムだと言える。エロ本を売り捌いていようと、事業を安定して継続している企業の経営は、僕らの観点から言えば正常であり、敬服に値すると言うべきであろう。そして、それを「リアリズム」だの何のと言って露悪的に正当化するのも、これまた輪をかけた愚かな話であろう。
それから平井さんについて少しばかり思うのは、関わってるプロジェクトとかイベントとか著作物のキャンペーンで、僕から見れば「過剰」と思える過大評価のフレーズが散見される。僕も確かに、中世を「頑迷なクリスチャン封建主義者が圧政を強いていた暗黒時代」だとして片づけるような手合いは、少なくとも学術研究者であれば何冊かの西洋史の読み物を手に取るだけで偏見だとわかるものを、視野狭窄しかもたらさない受験暗記だけでものを言ってるバカだと思うが、さりとて古代・中世の史実なり人物をとらえて簡単に「革命」という言葉を使ってしまうのもどうかと思う。ちなみに、僕は「産業革命」を歴史用語としては認めていない。そんなものこそ、特定の産業の勃興こそが人類にとっての〈正義〉や〈開明〉であったのだというキャンペーンに歴史家が利用されているだけだ。とりわけ、いまでは馬鹿でも口にする「情報革命」なんてものは、科学哲学者としてのポジション・トークで言って、ありはしない。そういう物神化こそ、或る種のカーゴカルトというものだ。