Scribble at 2022-05-06 09:46:49 Last modified: 2022-05-06 10:00:32

過去の成果を後世の研究者が(もちろん学術書をたまたま読んだ門外漢でもよいが)どれほど丁寧に扱って、認めるなり却下するなりして観点や論点や議論を共有したり当人なりに理解して、いわば〈受け継ぐ〉のだろうか。こういうことに正確で長期に渡る調査など実施された試しはないが、例えば日本だけに限るとヒュームやラッセルやウィトゲンシュタインについては相当な人数が彼の著作を読んでいて論説を残している。しかし、カルナップやグッドマンについてはどうだろうか。彼らの主著と言える著作(いわゆる "Aufbau" と The Structure of Appearance)は翻訳されていないので、大半の学部生は素養として一読する機会もなく大学を出てゆくだろうし、プロパーにしたところで専門分野でもない限り原書を大学の図書館から借りてまで、ましてや自費で買ってまで読む人はそういない。いや翻訳が出ていても、プロパーにすら〈縄張り〉の外にある著作物はなかなか読まれないものだ。分析哲学のプロパーで『グラマトロジーについて』を読んでるとか、現象学の愛好者(*)で『反事実的条件法』を読んでるとか、そういうことは稀である。

そうすると、やはり平たく言えば過去の成果は、いわゆる「ビッグ・ネーム」であろうとなかろうと、十分に受け継がれているとは言えない。そしてそれゆえに、恐らく多くの人々は過去の著作物をしかるべき媒体なり施設で保管し共有するべきだと思っているのだろう。ここでは具体的に侮蔑しないと年頭に宣言したから、いちいち書かないが、図書館の書庫に保管され数年後に廃棄されるような、手に取った人々の暇潰しや気晴らしとして刹那的に消費され消えてゆく「思想書」だの「哲学書」も多いが、そういう些末な紙屑がどうなろうと、はっきり言って知ったことではない。そんなものを、ひとまずは行政として国立国会図書館へ集約する以外に市井で自由にアクセスする機会を確保するような「多様性」など、人の文明や叡智の進展なり持続性とは何の関係もないことであろう。

もちろん、もはや21世紀にもなって〈唯一の真理〉に固有の意味があり、しかも言語表現として固定することが哲学であるなどという、認知科学や言語哲学という点から言っても素人としか言いようがないクオリア信者の「作家」先生が哲学を大学で講じる資格などありはない。が、かといって隠れパターナリズムに過ぎない偽の寛容さを訴えるような多様性信者とか、雑な保留を哲学的な中立とか客観性とか冷静さだと錯覚している、哲学的なというよりも寧ろ「不感症」、あるいは判断に資する論点や脈絡を単に勉強していない、欺瞞的な「ホーリズム」の支持者も論外であろう(もちろん僕はこのようなものを括弧無しのホーリズムだとは思っていない)。

なんにせよ、これまでもそうであったように、そして今後もそうである他にないと思うが、何を継承したり保有するかは各時代の人々が決めることである。それは大多数が個々の著作物について吟味したうえで、最高裁判事の信任投票みたいに一つずつ判断するというよりも、大多数が無頓着である他にないような何かについて付託された大学なり公共図書館が(皮肉な意味で)自律的に継続する事業だ。よって、何かを積極的に後世の人々へ受け継いでもらいたいのであれば、やはり個々の研究者なり個人が自ら成果を(それが「業績」として公的に評価され、支持されるまでには至らなくても容認されるという意味で)残すほかにないのだろう。そういう事情からすれば、出版とか論説の投稿や掲載は、或る種の〈競争〉であり、ポスト・モダンの人々が好きな言い方を使うなら(そして「競争」という言葉にビジネスライクなニュアンスを感じて避けたい、政治寄りの思想オタクが好む言葉を使うなら)「闘争」でもあろう。

しかし、これは果たして学術研究における Americanization というかビジネス志向というか、要するに「プロモーション」という制度的な脈絡にある(そしてたいていは経済的な脈絡にもある)活動が必要だという話になるのだろうか。あるいはそうかもしれない。現代の学術研究が、少なくとも大学とか出版あるいは教育行政という制度的な set-up においてしか考えられないという人々にとっては、それが彼らの生活の糧でもあるのだし、何らかのパフォーマンスも求められよう。したがって、日本に限らず出版やマスコミ、そして行政においても学術研究者の党派的とすら言えるようなパフォーマンスにも何らかの社会的な価値なり意義があろう。もちろん、日本の物書きの大半のように学術としての業績がまるでない、そして物書きとしても未熟なストリート・ダンサーや辻説法の弁者のような人々ばかりが出版したりセミナーを開いている文化的辺境国家においては、そもそも後世に何事かを継承する力がない(つまりは哲学者としての動機も能力も意欲もない)無能が出版する紙屑ばかりが増えるだけでは、それこそ僕が常々言っているような「ゼロ算術」どころかマイナスになりうる国家規模の愚行でしかないので、ひとまず夥しい分量の古典を翻訳したり原著を収集するくらいが関の山なのであろうか。

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* 現象学の場合はこう呼ぶ方がふさわしいだろう。なんと言っても厳密な認識論の話をしているようで、実際には肉体フェチという性癖の話だからだ。これはもうニューアカがブームだった頃から、人並みの感受性さえあれば愛好者の文章に誰でも見て取れた事実である。そして、実のところ僕はこの事実を揶揄したり非難したいわけではない。

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