Scribble at 2022-04-28 15:05:27 Last modified: 2022-04-28 15:16:40
コピペみたいに「自然主義的誤謬」という言葉を繰り返すのも(凡人としては)結構なことかもしれないが、少しはそれが十分に妥当な根拠をもって「誤謬」だと前提してもいいものかどうかを考えてみるくらいのことをしてはどうなのかというのが、パトリシア(・チャーチランド)を初めとする人々のアプローチの背後にある発想だと思うんだよね。
これは supervenience の議論にも見て取れるわけで、殆ど根拠もなしに仮定されたり前提されてきた二分法の一方がデタラメやでっち上げや錯覚だったらどうするのか(それゆえ教え込まれた人々は、それを「哲学的な素養」だと思い込む。凡庸な人間にとっては自然で疑問の余地もない趣味や性癖のようなものだが、少なくともそれを許さないレベルの人々がいるのは確かだ。もちろん、必ずしもそれが僕だと言いたいわけではないが)。
確かに、或る二分法や価値の基準が歴史的な偶然の産物にすぎないとか、十分な根拠がないとか、それどころか思想家個人の趣味や子供時代の経験によるただの偏見にすぎないなどと指摘するポストモダンのやり方は、裸の王様を見て指を向けたり叫ぶくらいならまだしも、王様のチンチンを掴んで揺さぶるようなことをやったのだから、それは凡庸な旧来の哲学教員たちや、「在野」とか「独立研究者」とか言われるクズみたいな素人どもの特権的な居場所で通俗本を書いてるやつらからすれば、顔が真っ赤になるのも無理はない。
ちなみにだが、僕は大学やシンクタンクで職務として研究したり教鞭を執っているわけではないから、プロパーではないという意味で「アマチュア」だという自覚はある。しかし、自分が「独立」の研究者だとか、ましてや「在野」の哲学者であるなどとは思わない。そもそも〈哲学する〉ことにプロもアマチュアもないし、公式も非公式もなかろう。そんな自意識に引きずられているから、しょーもない辺境地帯で、〈哲学する〉べき切実な動機も事情もなく、暇潰しに哲学書とやらを期待して手に取るどうでもいい連中を相手に二束三文の本を書くくらいしかやることがないのだ。これを、書く側にとっても読む側にとっても、社会科学的なスケールの〈ゼロ算術〉と呼ばずに何と言えばいいのか。