Scribble at 2022-04-21 13:20:39 Last modified: 2022-04-21 22:01:49
雑な議論にはなるが、我々は数多くの先人から成果を受け取り、また自らも同時代の人々と議論しているため、或る人物が残した主張だけを元に持論を組み立てたり展開して、いわばその人物の思想史的な子孫や(劣化)コピーのようにふるまうものではない。どれほどカントの論文しか書いていない人物であろうと、カントの著作しか読まず、歴史的再構成もしくは合理的再構成によって、当時の(歴史的に再構成された)カントならば当時の他の事案についてどう論じたかとか、現代の(合理的に再構成された)カントならば現在の事案についてどう論じたかとか、あるいはアナクロニズムを承知の上で当時のカントならば現在の事案についてどう論じたかとか、現代のカントならば当時の他の事案についてどう論じたかとか、そういったことしか考えたり論じることがないというのでは、およそカントの祖述者としても一人の哲学者としても、僕らの立場では未熟と言わざるをえまい。カント好きの哲学ファンや思想おたく、あるいはエピゴーネンと呼ばれる人々がほとんど哲学と関係のない党派性や自意識だけで先人の議論を貶めるのは、そういう無能が真摯でまじめで切実な動機もなく物事に(それを「哲学」とか「学問」とわざわざ特定する必要もなかろう)かかわるからなのだ。
しかしそうなると、誰しも少なくとも複数の先人や同僚から学んだり経験したことから自らの研鑽を積んでゆくのであるから、どれほどの思想史的な大スターの業績であろうと、不可避的に相対化されうるし、無自覚な妥協へ至る可能性もあろう。かなり雑な言い方をすれば、思想として「希釈」されるというわけだ。仮にクワインを学ぶと同時にデリダを学ぶような人がいたら、そういう人物においては、たとえば言語というテーマについて、クワインやデリダたち自身とは多くの点で異なるスタンスなり学説が生まれるかもしれない。もっとも、現実には大半の研究者に確固としたスタンスとか主張なんてなく、言わば〈哲学的な優柔不断〉とも言うべき腰抜けを研究者としての客観性や不偏不党性だと弁解しているだけのことであろう。それゆえ、どれほど批判があろうと、僕はキャンベラ・プランだとか neurophilosophy などを堂々と奉じる人々の方に、賛同するにせよしないにせよ関心がある。結局、それらを政治的な主義主張とかヘゲモニー争奪戦の牽制だと思い込むからこそ、「哲学者」として不純なことだと忌避するような思い込みが生じるのだろう。しかし僕に言わせればば、そういうカマトトの発想こそ哲学としての〈進展〉というコンセプトを根腐れにしてしまう凡人の依存性というものだ。