Scribble at 2022-04-02 10:43:41 Last modified: unmodified
「業績」とか「実績」とか「成果」と言っても、それが評価されたり多くの人々に知られる保証はない。僕がふだんから(やや雑に)これらの語句を使い分けているのは、「結果」を出すだけでは不十分であり、テニュアを獲得したり助成金を得たり何らかの寄付を集めるなら、現代の制度化された〈産業的〉なアカデミズムや教育機関においては、或る種のマーケティングが必要であろう。そのこと自体をべつに哲学者として不純だのと言ってみたところで無益である。そして、まったく同じ基準によって僕自身が「ドクター崩れの放言野郎」と隠れたところで侮蔑されているのも知っているし、それはそれで事実である。それゆえ、それは僕としても何らかの成果を(「実績」や「業績」とまではいかなくても)出したい。ただ、少なくとも僕がやっている哲学は他人に認められたり大学に籍を得たり勁草書房から本を出すためではないし、プロフェッショナルとしての職責もないので、ひとまずマイペースで続けている(まぁそのまま成果を出さずに死ぬかもしれんがね)。これはこれで、無論だが自己矛盾や自己欺瞞の見本みたいだが、強調しておきたいのは「実績」が必要なのは大学に籍を置いているプロフェッショナルな教員だけであるということだ。なんでアマチュアの我々に「職」責などあるものか。僕がもつ職責は、所属企業でのシステム開発やサーバ構築や Chief Privacy Officer としての業務プロセス・マネジメントや経営幹部としての事業運営だけである。
そういうわけで、SNS とりわけ Twitter で威勢のいいことをあれこれと書き並べている人々には、上記の基準を当てはめて判断するほかにない。やや過去の事例だが、どれほど supervenience が下らないと叫んでみても、それについて科学哲学なり分析哲学として論文や書籍を出版した成果もなく、また書籍を出版したところで Notre Dame Philosophical Reviews に取り上げられたり、あるいは Lakatos 賞どろこか APA のマイナーな賞すら受けてもいないようでは、他人の話題として視界に入っていないのであるから、これでは Twitter の哲学アカウントを既に何年も前から「哲学の研鑽なり個人としての思索にとって何の価値もない」と断定し無視してる僕の視界には全く入ってこない。また、わざわざ Twitter で威勢のいいことを書いてた人のことを改めて思い出したり、現在までの成果を調べる暇人なんていないのである。