Scribble at 2022-04-01 08:20:43 Last modified: 2022-04-01 15:43:22

哲学の本、とりわけ古典を読む人がしばしば「物足りない」などという感想をアマゾンやら書評サイトに書いていることがある。でも、そういう人は最初から哲学の本を読んでも読まなくても同じではないかと思う。何かが文字として書かれていなければ、どう考えられるのかを自分で考えてみるのが哲学書を読む人の標準的な「コンピテンシー」というものであって、それをやろうとしないかできない人は、そもそも哲学の本を読む動機が最初からなくて自意識のためだけにページを開いている〈情報処理業者〉であるか、哲学書に何か人生や世界や天下国家を論じる模範解答でも書かれているかのように錯覚している〈素人以下〉の人間であろう。もちろん、僕はここで哲学書を読む〈資格〉の話はしていない。そういう傲慢な話をしているわけではなく、本を読む動機や経緯や目的が単にミスマッチとなっている人々にとっては、そのような読書は僕がしばしば言う〈ゼロ加算〉だと言いたいわけである。

ところで、時間やお金や労力の浪費や暇潰しであるという主旨を「ゼロ加算」と呼ぶことは適切だろうか。僕は当サイトでも安易な visualization だとか哲学書にイラストや漫画や図表や喩え話や逸話や「モデル」を持ち出すことに苦言を呈しているが、もちろんそれらの手法を軽蔑しているわけでもないし、下司だの低俗だのと言いたいわけでもない。適格かつ厳密な使い方や効用を期待できるのであれば、アニメや漫画で哲学を表現しようと、あるいは〈イラストだけで〉(解説文なしで)哲学の論点を表現するような作品を公開するのも良いことなのだろう。あるいは、〈哲学的書体〉を考案して自著の本文にフォントとして採用してもらってもいい。僕がいつも腹を立てているのは、既に「図学」や scientific visualization のような研究分野があるにもかかわらず、それらの知見に学ぶこともなく女子高生や幼女を表紙に描けば思想オタクに哲学書が売れるという、拙劣なマーケティングの発想しかできない無能が国内の出版事業者の大半を占めているという事実についてである。電通の新卒以下だよ。はっきり言って。

さて、些事はともかくとして、では僕が言いたい主旨(趣旨は既にご理解いただいていると思う)を的確に表現するには、「ゼロ加算」と言えばいいのだろうか。他に、似たような主旨を表せる表現としては「ゼロ乗算」や「1の乗算」もある。いや、そもそも「何に対して」演算してるのか。もちろん、読み手のもつ目的や動機や期待に対して何か応えるものがあるかどうかだが、そういうことならゼロとは言いすぎであって、哲学書に手を出すくらいなのだから小学校は出ているであろう人々が、文字を読んで何も得るものがないということは〈生理学的にありえない〉だろう。昆虫ですら歩いていて石に突き当たれば何らかの反応をする。それと同じである。すると、見識や素養といった更に高尚な何事かであろうか。おそらく、そういう点での正確さや的確さは無用であろう。このような表現を使う趣旨は、哲学書を読むということの意義を誤解したままであれば、何千冊に目を通しても〈同じこと〉であると言いたいからだ。そこで「何が同じなのか」と問うたところで野暮というものだろう。もしかすると、本当に演算するべき対象の方だって「ゼロ」なのかもしれないからだ。

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